会社設立のころ
独立を決意したのは38歳の時である。設計業務の担当者としていくつもの案件に携わってきたが、当時の一般的な定年まで、あと20年ほど。自分の力を試すには最後の年回りであると考え、無謀にも仕事のあてがないまま、開業へと突き進んでしまった。
1990年、暮れも押し迫ったころ、所長からようやく円満退社の許しを得た。入社から20年の年月が経っていた。
開業に際しては、知人から竹島重男著『会社の作り方一切』を借り受け、手続きについて学んだ。「株式会社」という名称が、社会的信用の点で望ましいと判断したのである。徒手空拳の身では、まず会社としての安定性を訴えなければならないと考えた。
発起人には家族のほか、協力事務所の後輩や友人にお願いし、まだ勤務中に法人を設立した。退職後、速やかに建築士事務所登録を行うためだった。
遅くとも年度末には退職すると決心していたので、年度をまたぐ案件の詳細設計は後輩に任せていた。彼は自宅に持ち帰ってまで、ホールの模型を仕上げてくれた。後年、「教場」のロケ地となった建物である。私は設計をまとめたところで退職し、監理は別の後輩が引き継いだ。
一方、内科医院の案件では、クライアントの希望と所長の理解により、独立後も引き続き担当させていただくことになった。監理のみを引き継いだ現場もあった。今にして思えば、こうしたところにも前所長の温かい配慮が感じられる。こうして1991年4月26日、「株式会社米田設計」が正式に業務を始めた。
開業直後の仕事
実質的な第一号となったのは、堀越内科医院だった。
内科診療所ながら、外観は山小屋を思わせるものとなった。外部建具はすべて木製。開業したばかりで、こちらもずいぶん力が入っていたのだと思う。
とはいえ、初乳の免疫が切れるのは時間の問題である。
前橋から一度も市外に居を構えたことのない、生粋の田舎者である。建築ジャーナリズムとは縁もなく、独立後の仕事は地元の人とのつながりから始まった。
アップルでは、店の改装をはじめ、スコッチハウスアップル、林檎亭、コーヒーショップアップル、スタンディングバーアップルと、設計の機会をいただいた。なかでもスタンディングバーアップルは、開業直後に手がけた仕事である。
佐藤さんからは、サービス業の精神の本質を鋭く教示された。ただ、クライアント本位の姿勢も、一歩間違えば設計者としての自立を妨げることになる。開業直後は、自分の考えを主張することに遠慮があった。相手の意向を尊重しながら、設計者としての考えを貫く。その両立には、相当の時間を要した。
私の行く末を心配してくださった周囲の方々からも、仕事の紹介をいただいた。下請け仕事も含めての話だが、とにかく給料はないという、初めての生活である。給与生活がマラソンなら、経営者は果てしない遠泳である。手足を動かしていなければ、おぼれてしまう。
同年配の人たちも、それぞれ人生の転機を迎えていた。住宅や店舗の設計が徐々に始まり、小さな仕事を重ねながら、事務所としての体を成すことができた。
CADへの転換
開業して間もないころ、設計の道具にも大きな転換の波が押し寄せていた。
建築専用CADも出ていたが、当時のパソコンの処理能力では使いにくく、1992年ごろ、私は出始めたころのJW-CADをMS-DOS版で使い始めた。
作業の進み方は手描きとはまるで違う。私の実感では、初めはなかなか進まないが、やがて二次関数のように立ち上がっていく。着手時には我慢が必要だった。
むくり屋根を手描きで図面にするには、鉄道定規や自在定規が必要だった。CADでは、まず屋根の曲率を決め、そこから逆に母屋の高さを求めることができる。ただし、実際の施工では、垂木の曲がり方や先端の納まりを考え、加工方法を検討しなくてはならない。
設計は原寸で進められるようになり、手描きの時のような曖昧さは許容されなくなった。手描きが生む偶然性も一概には否定できないものの、生産の合理性を考えれば、やむを得ない面もある。それでも、鉛筆に親しんだ頭脳には、当初は非常に窮屈なものだった。
一方、日本建築のように柱芯を基準としてグリッドを展開する考え方は、CADによる数値化と相性がよかった。PC-9800シリーズを使った、今から考えれば非常にのんびりした環境だったが、徐々に使いこなせるようになった。
当初は手描き時代の慣習を引き継ぎ、1ファイルに図面1枚としていた。しかし、レイヤーを管理すれば、複数の図面を一つのファイルに納めることができる。図面の管理方法一つをとっても、紙の上で描いていた時代とは考え方が変わった。
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