福島建築設計事務所での年月

卒業にあたり、市内の設計事務所に勤めていた二年上の先輩に進路を相談した。その先輩が勧めてくれたのが、福島建築設計事務所だった。理由は、さまざまな建築の設計に関われるから、というものだった。先輩自身の勤務先は、大工や工務店を相手とする代願の仕事が主だったという。

1970年に入社した。当時は福島建築設計計算事務所という社名で、創設者が構造設計技術者であったことに由来する。

官公庁の非木造の大規模な施設設計が中心だったが、私は大は小を兼ねるくらいに思っていた。ここで何より身についたのは、設計施工分離という仕事の考え方だったと思う。

建築を専門としないクライアントの立場に立ち、契約や工事の内容を専門的に補佐する。施工者とは役割を分け、設計・監理に専念する。この姿勢が、その後の仕事の根底となった。

当時の自分には分不相応とも思える、団体の代表などと直接接する機会も与えられた。仕事の進め方だけでなく、トップに立つ人の魅力も学ばせていただいた。

計算尺を使っていた時代から、やがて電卓が出てきたときには、本当に助かった。苦手なことを抱えながらも、仕事に必要なことを一つずつ身につけていった。

小見先生のアトリエには、就職後も通い続けた。しかし、二十代半ばになると、仕事の責任も増し、週一度とはいえ時間をつくることが難しくなった。絵そのものも、仕事で消耗した頭ではまとめきれない。いつかはまた描こうと思いながら、暇乞いに伺った。

後にお目にかかったころ、先生は白内障で絵が描けなくなったとおっしゃっていた。無念だったと思う。その言葉は、今も心に残っている。

勤務時代には、独立後の仕事につながる別のご縁も生まれていた。アップルの佐藤さんとの出会いである。

二十歳になる前、近所の内装業者に頼まれ、敷島公園近くのコーヒーショップ「アップル」の図面を描いたことがある。また、高校の後輩の紹介で、アップルグループの建築透視図を描く仕事も引き受けた。佐藤さんにはことのほか気に入っていただき、私も店に足しげく通うようになった。

このつながりが、後に独立してからの仕事の基盤となっていく。