絵を描きたいと思ったころ

会社設立のころから書き始めたが、自分と建築とのかかわりは、もっと前にさかのぼる。直接の始まりは、高校進学にあたって群馬県立前橋工業高校建築科を選んだことだった。

私が生まれた家は、紙袋の製造販売を生業としていた。日用品を買う先はまだ個人商店が主だった時代で、紙袋はそうした店の必需品だった。幼少期にはそれなりの暮らしをしていたが、中学生になるころには大規模な流通会社が台頭し、家業の販路も小さくなりつつあった。

もともと高学歴の家庭ではなく、そうした経済状況のなかで、大学まで進ませようという気運もなかった。私自身も、大学進学はなんとなく別世界の話だと思っていた。

中学二年になると、そろそろ進路を真剣に考えなくてはならない。そんな折、前工に進学した近所の上級生に前工祭へ誘われ、学校の門をくぐった。そこで目を引いたのが、彩色された建築パースだった。

数学、とりわけ代数が苦手で、理系の仕事などとても無理だと思っていた。かといって文系の仕事にも、これといった見通しがあるわけではない。そんなふうにふらふらしていたとき、「絵を描く仕事もあるのか」と、直感的に興味を持ったのである。

家業が紙を扱う仕事だったから、絵を描くには好都合の環境にあった。二月生まれで、勉強でも体力でも周囲に後れを取っているように感じていたが、絵を描くことだけは、なんとかついていけた。絵に関しては、変な自信が芽生えていたともいえる。

中学三年の進路相談では普通高校への進学を勧められたが、そのころには前工建築科へ進む意思は固まっていた。普通高校と工業高校の選択には、本人の希望だけでなく、家業や家庭の事情も強く関わる時代だった。同級生四十八名のうち、四年制大学へ進んだのは六名だったと思う。

当時の前工は八科十クラス、全校の定員が千五百名という、男子ばかりの殺風景な学校だった。上級生はずいぶん大人びて見えた。

担任の先生は、初めて受け持つ生徒ということで張り切っておられたが、こちらは学校をなめきっていた。最初の中間試験は惨憺たる成績で、大いに叱られたものだ。絵が描きたくて入った学校だから、当然のように美術部に入り、そちらに熱中していたのである。

もっとも、美術部といっても硬派の気風があり、雰囲気は体育会的だった。それでも上級生にはたいへんかわいがっていただいた。後年、仕事のうえでもお付き合いが続いた方々である。

小見辰男先生のアトリエ

二年上の先輩が卒業する際、今度二年生になる私に、小見辰男先生のもとでさらに絵を勉強するよう勧め、紹介してくださった。「ものの見方を覚えて来い」と言われたことを覚えている。

小見先生は、上毛かるたの絵札を二度にわたって描かれた洋画家である。演劇の大道具なども手がけておられ、上毛かるたの仕事も、そのご縁だったと伺っている。
洋画家ながら、モチーフには武具や能衣装など、日本的なものを選ばれていた。ドカンと胡坐をかいてイーゼルに向かう姿が、今も印象に残っている。

油彩は塗り重ねていく技法である。刺身を引く包丁の切れ味とは違う、神経の緊張感がある。先生からは平面構成、隣り合う色面の色価に注意を払い、画面全体で表現することを教わった。いわば、質量を重視する絵というものを学んだ気がしている。

公募展には批判的な視点もお持ちで、「労働者を慰撫するようなものだ」とおっしゃったことがある。下手な絵をおだて、よい気持ちにさせる程度のものだ、という意味だったのだと私は受け止めている。厳しい言葉だが、プロとして絵を突き詰めていくことを大切にされた、その裏返しだったのだろう。

丁寧な言葉を使おうとして妙な敬語になると、よく「もっと素直にしゃべろ」と言われた。そういう古風な一面が好きだった。
飛騨高山のことを知ったのも、先生を通してである。欧州旅行から帰られた折には、アトリエでたくさんのスライドを映していただいた。その記憶が、「卒業したら、まずカメラを買おう」と思うきっかけになった。

高校時代には、街中の貸しギャラリーを借り、たびたび展覧会を開いた。岩神町の校舎から用務員室のリヤカーを借り、額装した絵や看板を載せて、前橋銀座通りを引いて運んだ。思い出すのは、気恥ずかしさと、それと一緒にあった充実感である。
特に、卒業間際に六名の級友とともに卒業設計展を開いたことは、記憶に残っている。上級生がやったことのまねにすぎないが、図面を他者に見ていただくという行為の原点でもあった。
さて、学業のほうはどうだったか。

数学が苦手なのに飛び込んだ建築の世界だったが、絵や建築パースは、授業のなかではおまけのようなものだった。製図もまだ烏口を使う時代で、自分が不器用であることを痛感させられた。定規の下へ一気に墨が広がっていくと、涙が出そうになったものだ。

数学、物理、化学と、理系科目は散々な結果だった。それでも、専門教科の構造力学はなんとか乗り越えることができた。社会に出たら、とりあえずこれは必要になるだろう。その切迫感のなせる業だった。
看板を背負っている間なら、クライアントを不安にさせかねない話である。しかし、そろそろ水戸黄門ではないが、「もういいでしょう」。