阿久澤家住宅の現像を終え、撮った画像を点検していて、ふと「この住宅での生活とはいかなるものだったのだろうか」と思いを馳せた。母方の実家である旧粕川村の旧宅は赤城型農家の典型で、囲炉裏で食事をし、一段高い座敷が奥にあるという、阿久沢家に近い構成だったからだ。
「阿久沢」という姓には、ある思い出があった。かつての勤務先での仕事を通じて数度お目にかかることができた、旧大栄信用金庫理事長の阿久澤徳次氏のことである。氏が旧宮城村の旧家の出であることは耳にしていたので、「あるいは何か関係が」と思いネット上で調べてみたところ、まさにこの住宅が重要文化財に指定された当時の当主であった。なんという巡り合わせであろうか。
理事長室に通された時、背後に旧陸軍時代の将校の軍装写真が飾ってあったことを、今でもはっきりと覚えている。温和な表情の中にも、芯の通った緊張感を感じた。 記録によれば、氏は日本大学を卒業後、応召されて将校への道を選び、中国大陸からフィリピンへ渡ったという。歩兵第15連隊第1中隊の中隊長として過酷な戦場で戦い、ルソン島で終戦を迎え復員された。
200名近い部下の命を預かり、戦後はその過酷な経験をもとに、金融機関で融資先の生死を預かるという、常に的確な判断を求められる立場にあり続けたのだ。
旧宅の価値を認め、旧家の責任としてその後を前橋市に託すという判断も、また的確なものであったと思う。古い萱葺きの民家を個人の力で維持し続けるのは、並大抵のことではない。
建物の構造は、竪穴住居に見られる形式の進化系といえる。柱こそあるものの明らかに開口部が小さく、出自が地侍であることから、防御のため、あるいは山間部の採暖目的であったのだろうか。同じ木造とはいえ、現代に直結する町家普請とは明らかに一線を画している。薄暗く、ひんやりとした室内の空気感には独特のものがある。
あの阿久澤徳次氏も眺めたであろうカスミザクラの巨木を、今、自分も眺めている。不思議な縁(えにし)に、少しばかり戸惑いを感じるひとときだった。
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