2026-04-12
写真は、建築デザインを思考する際のモチーフを採集する作業だったのかもしれない。
とにかく全景からディテールまで記録する。それも限られた時間内でのことである。
さらに仕事においても、現場の施工記録や竣工写真と、これもまた記録を主目的としたものであった。少し違うとすれば、竣工写真においては建築の美しさや面白さを最大限に表現する点にあった。
最近、本来の業務から少し身を引き、設計内容も二次的な領域(実際には縁の下の最重要部分)に終始するようになった。その結果、デザインのモチーフ探しは必要ではなくなった。
前回の九州旅行は職場の研修旅行であったが、現像した画像から、これまでとは異なる視点に立っていることを感じた。つまり、その建築のもつ空気感に軸足を置くようになっているのである。建築を見ることそのものを楽しめている。
桜を追った今年の撮影行では、いくつか考えさせられることがあった。何を撮りたかったのか、単なる記録ではない写真とは何かを考えるようになった。
一方で技術的には、フィルム時代に染み付いた技法――絞り、シャッター速度、感度――それらの組み合わせと、画角によって変化する被写界深度の読みといった要素の複雑な関係に、改めて関心を寄せている。
例えば、三脚固定であっても屋外ではシャッター速度を極端に下げることができないことや、画角が狭くても被写体との距離をとることでパンフォーカス的な画像が得られることなど、学ぶことは多い。
旅先では限られた時間や場所の制約の中での撮影となる。明るさが十分でない場合や、画角が確保できない場面もあり、その都度、各設定を臨機応変に選択しなければならない。
今回の阿久沢家には、昼と夜、計三回訪ねることができた。反芻することで、問題解決の糸口もわずかながら見出すことができた。
こうした問題意識を持つ契機が生まれた背景には、AIによる講評から受けた影響が大きい。初歩的なことから感覚的なことまで、多くの問いに応答を得ることができた。
仕事から離れ、撮影を趣味として育てていこうと考えているが、その奥深さを改めて感じている。果たして何に感動し、どこに満足を見出すのか。楽しみでもあり、不安でもある。
以上、最近の撮影で感じたことの独白、備忘録として記しておく。
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