2026-09-05

前橋まつりの協賛金三千円を支払った。それをきっかけに祭りの歴史を調べ、母の記憶をたどってみると、昭和29年の幼い自分の写真から、町内自治会が直面する現在の問題までが一本につながった。

前橋まつりが近づき、町内自治会から協賛金の依頼が届いた。昨年までは自治会の役員を務め、協賛金を集める側にいた。今年は単に集められる側である。前年並みの三千円を協賛したが、年金生活を目前にすると妙に金銭感覚が鋭くなる。

そういえば、最近どこかでも三千円という数字を聞いた。前橋国際芸術祭の入場料である。

同じ三千円でも性格は違う。芸術祭の三千円は鑑賞するための入場料であり、前橋まつりの三千円は地域の行事を支える協賛金である。ただ、財布から出ていく金額として考えれば、どちらも決して軽くはない。これまで集める側にいたため深く考えなかったが、改めて、このお金は何を支えているのだろうと思った。

復興祭から始まった前橋まつり

前橋まつりは、古くから続く神社の祭礼がそのまま発展したものではない。

昭和二十年八月五日の前橋空襲により、市街地の約八割が焼失した。その復興と市民の活力、生きる希望を取り戻すため、昭和二十三年に「復興祭」として始まった。翌二十四年には「前橋商工祭」となり、昭和三十四年から、市民総参加を掲げる「前橋まつり」へ改称された。

商工祭の時代は私の幼少期と重なるが、さすがによく覚えていない。当時の写真を見ると、トラックの荷台に企業名や商品名を掲げた広告山車が町を巡っている。花火や商品展示も行われ、復興しつつある商工業を市民に示す、見本市と娯楽を兼ねた行事だったようだ。

前橋には、江戸時代から祇園祭礼があり、各町の山車が城下を巡行していた。しかし、昭和二十年の空襲では、市街地の大部分とともに山車も焼失した。

母に尋ねると、戦災で前橋八幡宮が焼失したことはよく覚えていた。しかし、商工祭の山車については、「借り物だったように思う」という記憶が残るだけだった。七十年以上前のことである。借りた先も時期も、今となっては確かめようがない。それでも、空襲で多くを失った町が、借り物を使って祭りを再開したという母の記憶には、当時の前橋の姿がかすかに残っている。

もしこの記憶が確かなら、自前の山車を失ったからといって祭りを諦めるのではなく、他の町から借りてでも、もう一度山車を前橋の町に走らせようとしたことになる。

そこには、単なる催し物の復活以上の意味があったのではないか。焼け跡の町に山車と囃子が戻ることは、前橋が再び町として動き始めたことを、市民が目と耳で確かめる機会でもあっただろう。

昭和二十九年十月十五日に撮影された、私の幼少時の写真が一枚残っている。昭和二十七年二月四日生まれだから、満二歳八か月のときである。

法被の襟には、子供組を示す「小若」の文字が染め抜かれている。

商工祭そのものの記憶はないが、写真の中の私は、確かに旧町名を背負って祭りに加わっている。

その後の町名変更によって、かつての町の単位は組み替えられた。行政上は住所の整理であっても、祭りを支えてきた側から見れば、町名は単なる地名ではない。若連や山車、親の代からの付き合いを束ねる名前でもあった。

現在の町内自治会に、どこか途中から編入されたような感覚が残るのは、旧町名の記憶が自分の中に生きているからかもしれない。

高崎まつりとの違い

高崎まつりと比べると、両市の祭りが置かれてきた条件の違いが見えてくる。

現在の高崎まつりは、昭和五十年に高崎青年会議所が始めた「高崎ふるさと祭り」を母体としており、現行の祭りとしては前橋より新しい。しかし、高崎の山車行事は享保二年、一七一七年の記録まで遡る。現在も中心市街地の各町内が三十八台の山車を所有し、維持管理しながら囃子を受け継いでいる。

一方、前橋は空襲によって山車を失った。また、旧来の前橋市域は狭く、中心市街地の町割りも、数多くの町内がそれぞれ山車を所有してきた高崎とは異なる。

したがって、現在残る山車の台数だけを比べ、両市の伝統の厚みを論じることはできない。高崎には、町内ごとの山車が物として継承されてきた歴史がある。前橋には、空襲による物理的な断絶の後、復興祭から祭りをつくり直してきた歴史がある。

高崎は、残された山車文化を新しい市民祭が包んだ。前橋は、戦災によって失われた市街地と祭礼文化の上に復興祭を立ち上げ、そこへ町内行事を組み直していった。

似て見える二つの祭りだが、出発点も、その後に背負ったものも違うのである。

すでに始まっている廃止

前橋まつりは昭和三十四年に「市民総参加」を掲げた。しかし、その参加を実際に支えてきたのは、抽象的な市民ではなく、一つ一つの町内だった。

私の町内でも、かつては子供みこしや山車を出していた。しかし、少子高齢化によって、それらはすでに廃止された。現在残る大人みこしも、担ぎ手の多くを町内にある企業の若手社員に頼っている。

これは、これから起こるかもしれない担い手不足ではない。すでに一部の行事を廃止し、残されたものを維持するだけで精いっぱいになっているのが現状である。

子供がいて、その親が付き添い、現役世代が準備や交通整理を行い、年長者が段取りを伝える。祭りは、そうした世代の連鎖によって成り立ってきた。しかし、今はそのすべてが同時に細くなっている。

企業の若手社員による協力はありがたい。ただし、人事異動や企業の移転、働き方の変化があれば、現在の形を維持できなくなる可能性がある。善意と前年踏襲だけに支えられた仕組みには限界がある。

参加者が減るほど、残った人の負担は増える。その負担の重さが、さらに参加者を遠ざける。昔と同じ形を守ろうとするほど先細りが進むという、皮肉な状況である。

これは、現在の役員や祭りを支えている人たちを批判するために書くものではない。私自身も昨年まで役員として協賛金を集める側にいたから、その苦労は多少なりとも分かっている。

限られた人たちの努力によって、祭りがようやく維持されていることも承知している。だからこそ、その努力だけに頼り続ける仕組みを、このまま次の世代へ渡してよいのかと考えるのである。

物差しのない人間関係

私自身、町内自治会での付き合いは得意ではない。

仕事上の付き合いには、役職や資格、経験、責任という一応の物差しがある。所属団体にも規約や役員構成がある。飲み屋の常連同士なら、同じカウンターに座ることで案外フラットな関係が生まれる。

ところが町内自治会では、何を基準に人間関係が成り立っているのか、いまだによく分からない。年齢なのか、居住年数なのか、家の歴史なのか、役員経験なのか。上下関係があるようでも、その根拠は曖昧である。

親の代からの付き合いもある一方、町名変更によって別の枠に組み替えられた疎外感も残っている。古くからの住民でありながら、新しい町内には途中から加わったようでもある。

自治会が苦手なのは、人付き合いそのものより、自分の立ち位置を測る物差しが見当たらないからなのかもしれない。

それでも、町内の伝統を不要だとは思わない。

前橋八幡宮から神輿が出て町を巡り、町に囃子や掛け声が響く。それは、この土地が受け継いできた記憶であり、町の風景の一部でもある。それを大切にしたいという気持ちはある。

ただし、伝統を守ることと、前年と同じ形式を繰り返すことは同じではない。

「市民」とは誰なのか

社会構造の変化は、こちらの都合を待ってはくれない。

最近、昼間の町を歩いたり、自転車に乗ったりする外国人の姿を多く見かけるようになった。すでに同じ町で暮らしている人たちである。しかし、町内自治会や祭りは、そうした新しい住民を地域の一員として迎える仕組みになっているだろうか。

町内特有の、言葉にされない関係や慣例は、日本人の転入者にも分かりにくい。外国人にはなおさらだろう。

もちろん、担い手が足りないからといって、新しい住民を単なる労働力として取り込むのでは意味がない。国籍や居住年数にかかわらず、参加したい人が無理なく加われる入口をつくる必要がある。

昭和三十四年に掲げられた「市民総参加」の「市民」とは、いま誰を指すのか。改めて問い直す時期に来ている。

町内単独で維持できないみこしは、複数の町内で合同運行してもよい。企業の若手社員も、一時的な応援要員ではなく、地域で働く一員として正式に迎えればよい。担ぎ手を町内の外から公募する方法もある。

また、すでに廃止された子供みこしや山車についても、その写真や記録、囃子、製作や運行に携わった人の話を残すことはできる。昔と同じ形で復活できなくても、記憶を残しておけば、いつか別の形で受け継ぐ足掛かりになる。

本当の意味での「転進」

昔と同じ形を維持できないことを、直ちに衰退や撤退と考える必要はない。

前橋まつりに必要なのは、本当の意味での「転進」ではないだろうか。

かつてのように、撤退を別の言葉で飾るという意味ではない。守るべき目的のために、方法と陣形を変えるのである。

残すべきものは、子供みこしの数でも、前年と同じ運行形式でもない。祭りを通じて人がつながり、自分の暮らす町との関係を確かめることではないだろうか。

前橋まつりは、復興祭から商工祭へ、商工祭から市民祭へと、時代に応じて姿を変えてきた。空襲で山車を失った後、母の記憶にあるように、他の町から山車を借りて祭りを再開したのだとすれば、それもまた一つの「転進」だった。

何もないところから、借りられるものを借り、人を集め、祭りをもう一度つくった。その歴史を考えれば、変化すること自体が前橋まつりの伝統ともいえる。

祭りを残すために、祭りの形を変える。

社会構造が大きく変わった現在、もはや待ったなしの「転進」である。