2026-09-04

前橋国際芸術祭の会期中パスポートが、一般3,000円に設定されている。これを知ったとき、まず感じたのは、市民が気軽に足を運ぶには少々高いのではないかという疑問であった。

世界的に評価される作家の作品を、80日間にわたり複数の会場で見ることのできるパスポートと考えれば、3,000円が法外に高いとはいえないのかもしれない。高校生以下は無料、大学生などは2,000円という設定もされている。それでも、現代美術に日頃から親しんでいるわけではない市民が、「せっかく前橋で開かれるのだから見てみよう」と出かけるための金額としては、いささか敷居が高い。夫婦二人なら6,000円である。

さらに、前橋市民のうち、めぶくPayを利用する人には、後日1,000ポイントが還元されるという。厳密には、めぶくPayで支払えばその場で1,000円引きになるのではない。3,000円でチケットを購入した後、条件を満たした前橋市民に1,000ポイントが付与され、実質的な負担が2,000円になる仕組みである。

めぶくPayは、単なるクレジットカードや一般的なQRコード決済ではないはずだ。市内の加盟店で利用することにより、消費とその情報を地域内にとどめ、地元商工業者と市民を結ぶ地域通貨として構想されたものである。芸術祭をきっかけに市民がめぶくPayを利用し、還元されたポイントを市内の商店で使うのであれば、地域経済への循環を生み出す仕組みとしてはよく考えられている。

しかし、その意味を前橋市が十分に説明しているようには見えない。説明がなければ、市民には、めぶくPayを使う人だけが1,000円得をし、現金を使う人は3,000円を負担する制度としか映らない。

スマートフォンを使わない人、登録に不安を感じる高齢者、現金を使い続けたい人も同じ前橋市民である。その間に実質1,000円の差を設けるのであれば、なぜ市民一律の割引ではなく、めぶくPayの利用を条件としたのか、ポイントの原資は誰が負担するのかを明らかにする必要がある。料金の3分の1に相当する差であり、単なる決済上のサービスとして済ませられるものではない。

そこで、3,000円という入場料を誰が決め、前橋市役所がどのような立場で関わっているのかを調べてみた。

調べて分かったのは、前橋市は単に芸術祭を後援し、名前を貸しているだけではないということである。市は官民連携の事業としてふるさと納税による寄附を公式に募集し、企業版ふるさと納税については「前橋国際芸術祭2026関連事業」として受け入れている。すでに複数の企業から、1,000万円、3,000万円といった規模の寄附も集まっている。

市の一般会計から支出される金額だけを見れば、前橋市の負担は小さく見えるのかもしれない。しかし、企業版ふるさと納税は、前橋市が対象事業として位置づけ、市の名義と公的な信用を与えなければ利用できない。企業側は税制上の大きな優遇を受け、市が寄附金を受け入れたうえで関連事業に活用する。市が自ら多額の資金を支出していなくても、芸術祭の資金調達を可能にする制度的な役割を担っていることは間違いない。

ところが、その一方で、前橋市長は芸術祭について「民間が主体となって行う」と説明している。市は共催者として関わり、公的制度を使って資金調達を支え、めぶくPayによるポイント還元にも関係している。それほど深く関与しながら、「民間主体」という言葉も使われる。成功すれば官民連携の成果となり、問題が起きれば民間主体の事業として扱われるのであれば、責任の所在は極めて曖昧である。

ここで、そもそも「官民連携」という言葉について考えざるを得なくなった。

地方自治における「官」、より正確には「公」は、市民と対立する別の存在ではない。市民から権限と財源を託され、市民全体を代表して公共的な判断をする立場である。

それに対して「民」は、一つの意思を持つ集団ではない。企業、商工会議所、青年会議所、文化関係者だけが民なのではない。給与生活者、子育て世代、高齢者、学生、賛成する人、疑問を抱く人、関心を持たない人、そして計画そのものを知らされていない人まで含む、対象を簡単には絞り込めない存在である。

ところが「官民連携」と呼ばれる事業では、行政と一部の企業や団体との連携が、あたかも行政と市民全体との共同であるかのように語られることがある。実態が行政と特定の民間主体との連携であるならば、そのように説明すべきである。一部の民間主体と行政との合意を、そのまま市民との合意に置き換えることはできない。

前橋国際芸術祭について市民は、構想が生まれ、方向が決められる過程では必ずしも当事者として扱われていない。しかし開催段階になると、「前橋」という名前の下で、芸術祭を支え、参加する市民として組み込まれる。意思形成には参加していないのに、出来上がった物語の中では当事者にされる。その非対称性に違和感がある。

個々の制度は、おそらく法令や定められた手続きの中で運用されているのであろう。しかし、制度上可能であることと、民主的な意思形成を経ていることは同じではない。

誰が最初に構想し、市はどの段階で関与を決めたのか。3,000円という料金を誰が決め、市は市民にとって妥当な金額かを検討したのか。1,000ポイントの原資は何か。集めた寄附金を誰の判断で、どこへ支出するのか。事業全体について議会はどこまで審議し、結果について誰が市民に説明するのか。

これらが一続きのものとして見えてこない。

私が感じている気持ち悪さは、事業が違法なのではないかという疑いではない。形式上の手続きには沿っていても、市民への説明、議会での議論、異なる意見を取り込む過程という、いわゆる民主的なルールの上を走っていないように見えるのである。

これは国政についても感じることである。しかし、市政となると、違和感はもっと直接、肌に伝わってくる。道路、建物、公共施設、祭り、商店街など、自分が毎日目にする町の姿が変わっていくからである。自分たちの町のことが、自分たちの知らない言葉と手続きによって決められ、その後で「市民との共創」と説明される。その順序に納得できない。

近年の前橋市は、「めぶく。」という言葉を掲げ、新しい都市像を外へ向けて盛んに発信している。しかし、私はこの言葉にも少なからぬ違和感を持っている。

前橋は、誰かに芽を出させてもらうのを待っていた町ではない。穏やかな前橋の空気の中に、私は何も生まれないほど疲弊した空間を感じてはいない。古い店が閉じれば新しい営みが生まれ、人が入れ替わり、町は目立たないながらも緩やかな新陳代謝を続けてきた。外から見て華やかな再開発が少ないからといって、これまで芽がなかったことにはならない。

外部の人が前橋を見て、新しい価値を見つけること自体を否定するつもりはない。外からの視線によって初めて気づくこともある。しかし、外からつくられた都市の物語を、市役所が前橋の公式な自己認識として掲げるのであれば、そこで暮らしてきた市民の記憶や、町が本来持っていた時間を忘れてはならない。

都市のアイデンティティは、新しい標語や著名な建築家の建物、国際的な催事を配置すれば生まれるものではない。町名、町内、祭り、商店、学校、川、古い建物、市民一人ひとりの記憶が長い時間をかけて重なり、形づくられるものである。

高崎まつりを見ていると、今も「町内」という単位が比較的よく見える。山車や神輿を通して、それぞれの町が祭りを支えている姿が表に現れる。前橋まつりとの違いは、規模や華やかさではなく、祭りをつくる地域の輪郭が見えるかどうかにあるのかもしれない。町名変更という共同体の記憶の切断を比較的免れたことも、高崎の都市としてのアイデンティティが前橋より明確に見える理由の一つではないだろうか。

新しい前橋を外へ向けてどう見せるかに熱心である一方、これまでの前橋が何によって成り立ってきたのかを、内側から丁寧に読み取る姿勢が弱く見える。前橋国際芸術祭に感じる違和感も、結局はここにつながっている。

私は現代美術を否定しているわけではない。一流といわれる作品を見ることは楽しい。芸術祭に参加する作家や、準備と運営に携わる人々の努力を否定するつもりもない。せっかく前橋で開催される行事である。多くの人が訪れ、新しい出会いが生まれ、芸術祭が成功することを願っている。

しかし、芸術祭の成功を願うことと、そこに至るプロセスを認めることは別である。

芸術祭が成功すれば、今回の進め方まですべて正しかったことにされるかもしれない。しかし、よい結果が得られれば、その過程も正当化されるというものではない。反対に、期待した成果が得られなかったからといって、芸術祭そのものを嘲笑するつもりもない。成果とは別に検証されなければならないのは、行政がどのように関与し、市民にどのように説明し、誰が意思決定と結果に責任を負ったのかである。

入場料3,000円への素朴な疑問から調べ始めた結果、前橋市が芸術祭に果たしている役割の実体は、ある程度見えてきた。それでも、気持ち悪さは消えなかった。知らなかったから不安だったのではない。調べて実体が見えてきたにもかかわらず、なお意思決定と責任の所在が見えないのである。

前橋国際芸術祭の成功を祈っている。しかし、市民への十分な説明を欠いたまま、一部の民間主体と行政によって進められてきたこのプロセスを、民主的で公正なものとして認めることはできない。