2026-09-03

■まだ郊外にできるのか
今日、前橋北部にあるかかりつけ医へ向かう途中、道の駅の近くで大きな工事をしているのに気がついた。見ると、またベイシアグループのショッピングセンターができるらしい。

「えっ」と思った。
驚いたというより、「まだ郊外にできるのか」という、半ばあきらめに近い気持ちだったのかもしれない。

郊外型商業施設を批判するつもりはない。企業が出店する以上、そこには相応の商圏と購買力があると判断しているのだろう。車で生活している市民にとっては便利にもなる。私自身、日常の買い物については、生まれ育った中心市街地ですることをすでに諦めている。

その一方で、「中心商店街の復活」「中心市街地の活性化」という言葉を今でも耳にする。

前橋では市街地の外周に商業施設が集積し、さらに新しい大型店が生まれようとしている。中心部でイベントを開けば週末には人が集まる。しかし、その人たちが平日に戻ってきて日常の買い物をするとは限らない。飲食や趣味性の高い物販は成立しても、かつてのように生活全般を支える商業集積を取り戻すことは難しいだろう。

中央アーケードに無印良品が出店したことにも、少し皮肉なものを感じる。もちろん店ができること自体は歓迎すべきことである。しかし、かつて多くの個人商店が日常の買い物を支えていた場所に全国ブランドを誘致し、それを「商店街の復活」と呼ぶことには違和感がある。

そもそも「復活」という言葉には、過去のある時点を望ましい姿とし、そこへ戻ろうとする響きがある。人口構成も交通手段も購買行動も変わった。郊外型商業施設に加えてネット通販もある。昔の商店街を取り戻そうとするだけでは、時代の変化を見落としてしまうのではないだろうか。

商業が衰退しても、そこで暮らす人の生活は続いている。

 

■住民と商業は双輪
ならば中心市街地に必要なのは、買い物客を呼び戻すことよりも、まず住む人を増やすことではないだろうか。

都内の駅前商店街が今も成立しているのは、その背後に大きな居住人口があるからだろう。食料品、惣菜、薬局、医院、理美容、飲食などを日常的に繰り返し利用する人がいる。住民がいるから店が成立し、店があるから住みやすくなる。居住と商業は、いわば双輪である。

前橋中心部でも、この循環をつくる必要があると思う。

住宅を増やし、食料品、医療、福祉、行政、文化施設などを徒歩圏に整える。そして公共交通によって、車を運転できなくなっても生活できるようにする。マンションや商業施設といった単機能の箱を一つ造るだけでは実現できない。住宅、商業、医療・福祉、公共空間、公共交通を一体として考える必要がある。

ヨーロッパの古い都市では、城壁に囲まれていたこともあり、集合住宅を中心とした高密度な市街地が形成された。人口密度が商業や公共交通を支え、それらがまた都市居住を支えている。日本でも関西に路面電車が比較的多く残っているのは、単に古いものを残す気風だけではなく、沿線の人口密度や都市構造とも無関係ではないだろう。

一方、日本の地方都市では、一戸建て、自家用車、郊外型商業施設という組み合わせが便利な生活を実現してきた。それが現在も便利である以上、中心部へ戻れと言っても無理がある。

商業者が商圏や採算性を判断し、郊外への出店を選択するのも当然の経営判断である。それを否定するつもりもない。

だから行政が考えるべきなのは、商業者に中心部へ戻ってもらうことそのものではない。中心部に住む人を増やし、公共交通、医療・福祉、公共空間などを整え、日常生活の需要をつくることである。その結果、「ここなら商売になる」と民間が判断すれば、必要な店も生まれてくる。

市場に委ねる部分と、行政が責任を持つ都市基盤。その役割を混同しないことが必要なのだと思う。

 

■十五年後、自分はどこで暮らすのか
そして、いつまでも自分で車を運転できるとは限らない。

私自身、すでに後期高齢者である。今は車を運転し、郊外の店へ買い物に行き、北部にあるかかりつけ医へも出かけられる。だから現在の前橋は、私にとって決して不便な町ではない。むしろ車さえあれば便利な町である。

しかし、あと十五年もすれば老人ホームを含めた住まいの選択が、かなり現実的な問題になるだろう。娘の住む都内という選択肢もある。しかし、窓から赤城山が見えなければ方向感覚を失ってしまいそうな気もする。できることなら、住み慣れた前橋で暮らし続けたい。街中の住まいを選べるなら、それも悪くない。

そう考えると、これは遠い将来の都市計画の話ではなくなってくる。

中心部に、車を使わなくても食料品を買い、医者にかかり、ときには外で食事をし、文化施設へ出かけられる環境があれば、街中に住むという選択肢が現実のものになる。それは高齢者だけでなく、子供、障害のある人、車を持たない人にとっても同じことである。

 

■中心商店街ではなく、前橋全体を考える
さらに前橋の場合、旧市域だけを考えていては不十分だ。平成の合併によって市域となった周辺の旧町村部では、人口減少と高齢化はさらに深刻になるだろう。商店だけでなく、医療や公共交通など日常生活を支える機能を、現在と同じように維持することは難しくなる。

そうなれば中心市街地には、否応なしにコンパクトシティの核としての役割が求められる。

もちろん、すべての住民を中心部へ集めるという意味ではない。周辺部には日常生活を支える地域の核を残し、それらを公共交通で結ぶ。そのうえで高度な医療、行政、文化など、市域全体で共有すべき機能を中心部に集積する。地域での生活が難しくなったとき、中心部や地域拠点へ住み替えられる選択肢も必要になるだろう。

これはもはや「中心商店街をどう復活させるか」という問題ではない。

誰のための中心市街地なのか、という問題である。

中心市街地政策を商工業者側からだけ考えれば、空き店舗に何を誘致するか、どうすれば人を呼べるか、イベントでどう賑わいをつくるかという話になりやすい。それも必要だろう。しかし、一般の市民にとって重要なのは、そこで普通に生活できるかどうかである。

都市政策というと、再開発やコンパクトシティといった大きな話になりがちである。しかし、大きな施策が必要なのは、大きなものをつくるためではない。

車を手放しても買い物に行ける。医者にかかれる。ときには街を歩いて食事ができる。

そんな一人ひとりの小さな生活上の問題を、個人の努力だけに任せず解決するためなのだと思う。

大きな施策の目的は、案外、小さな日常の中にある。

人口が減少していく前橋市全体を、これからどう維持していくのか。車を運転できなくなっても生活を続けられる場所をどこにつくるのか。旧市域だけでなく、周辺の農村部まで含めて考えなければならない。

必要なのは、昔の中心商店街への「復活」ではない。

人口減少と超高齢化を受け入れたうえで、これからも市民が暮らし続けられるように、前橋という都市そのものを再構築することなのだと思う。

そして私自身が望んでいるのも、昔の賑わいを取り戻した商店街ではない。

十五年後、車を手放した私が、できれば窓から赤城山を眺めながら、この町で日々の生活を続けていけることである。

今日、かかりつけ医へ向かう途中、新しいショッピングセンターの工事を見て「えっ」と思った。

驚きというより、「まだ郊外へ広がっていくのか」という、半ばあきらめに近い気持ちだった。

しかし、生活はこれからも続いていく。

その一瞬の「えっ」から、中心商店街のこと、周辺地域のこと、そして十五年後の自分がどこで暮らしているのかまで考えてしまった。

昔の町に戻すのではなく、これからも暮らしていける町につくり直す。

結局、私が中心市街地に望んでいるのは、そういうことなのだと思う。