2026-09-02

前橋国際芸術祭が始まる。

街なかを会場として、国内外の作家による作品が展示されるという。前橋に人を呼び込み、街を歩いてもらう機会になることは間違いない。中心市街地が賑わうことも歓迎したい。

しかし、その一方で、この芸術祭は誰のために開かれるのだろうか、という疑問が湧いてくる。

外部から人を呼び込むためのものなのか。前橋を国内外へ発信するためのものなのか。それとも、前橋で日々暮らしている市民のためのものなのか。

市内を横断して行われる他の祭事についても、私は同じことを考えてしまう。来場者数や経済効果が開催目的として語られることは多い。しかし、その催しによって市民が何を得るのか、市民と街との関係がどのように変わるのかという論点は、案外見えにくい。

前橋国際芸術祭の背景には、「めぶく。」というまちづくりの理念と、白井屋ホテルなどに象徴される中心市街地の再生がある。これらを進めてきた田中仁氏の活動には敬意を払っている。ただ、そこには前橋を外部から見て、どのように評価してもらうかという視線が強いように感じる。

白井屋ホテルも、建築、アート、食を高い密度で編集した施設である。単体の建築としては興味深い。しかし、長く前橋で暮らしてきた者として眺めると、日常の市民よりも、東京や海外から訪れる人に向けてつくられた前橋という印象を受ける。

もちろん、外部の優れた作家を招くことを否定するつもりはない。いわゆる一流の作品を実際に見ることは楽しい。画集や画面を通して知っていた作品でも、実物を前にすれば、大きさや素材、筆触、空間との関係など、初めて分かることがある。自分の理解を超えた作品に出会い、戸惑うことも含めて、芸術を見る楽しみである。

ただ、作品を見る楽しみと、それを市民へどのような姿勢で示すかは別の問題である。評価の定まった作品を並べ、市民を鑑賞者として招くだけでは、文化が街に根づいたことにはならない。その作品に触れた市民が、自分も何かを表現してみようと思えるのであれば、外部から作家を招くことにも大きな意味がある。

市民は文化の消費者であると同時に、文化をつくる主体でもあるはずだ。

不遜ながら、私は若いころから絵画に親しんできた。自分でも下手な絵を描いたことがある。

古典的な絵画は、洋の東西を問わず、見る者に安らぎを与える。作者や時代について詳しく知らなくても、色や形、光、そこに描かれた人や風景から作品へ入っていくことができる。

一方、現代美術には感性よりも理屈が先に立つ作品が少なくない。説明を読まなければ入口さえ分からず、作家の内部で消化されて終わっているように感じることもある。私に現代美術を理解する知識がないからだと言われれば、そのとおりかもしれない。

しかし、理解するための資格が必要であるかのように市民へ感じさせる芸術であるなら、その距離自体も考えてみる必要があるのではないか。

かつて芸術家を支えたのは、貴族、宗教、大商人などのパトロンであった。彼らは信仰や権威、富や教養を表現するために芸術を必要とした。現在では、美術館、行政、財団、企業、収集家などがその役割を担っている。

しかし、これから本当に芸術を必要とするのは誰なのだろう。

外部で評価の固まった作家を招き、その作品を市民に見せる。話題にはなるだろう。多くの人も訪れるだろう。しかし、それだけではサーカスの見世物とあまり変わらないのではないか。興行が終わり、作品と来訪者が去ったあと、前橋に何が残るのだろう。

前橋には、市民が自ら制作した絵画などを展示する市民展がある。その会場は市民文化会館であり、アーツ前橋ではない。運営上の理由はあるだろうが、著名な作家の作品は美術館へ、市民が描いた作品は文化会館へという分け方に、文化の序列を感じてしまう。

市民は完成された芸術を見せてもらうだけでよいのだろうか。

私は、市民一人一人が絵筆を握ることのほうが大切ではないかと思う。

これは、全員が立派な絵画を制作すべきだという意味ではない。写真を撮る、文章を書く、花を生ける、楽器を演奏する、地域の歴史を調べる。上手下手にかかわらず、自分の目で見て、自分の手を動かして表現することである。

一度でも自分で線を引けば、他人の絵を見る目も変わる。写真を撮れば、光や季節、街の変化に気づくようになる。芸術とは、本来そのように日常の中へ入ってくるものではないだろうか。

外部の優れた作家を招くことを否定するつもりはない。その作品に触れた市民が、自分も何かを表現してみようと思うのであれば、大きな意味がある。

ただ、評価の定まった作品を並べ、市民を鑑賞者として招くだけでは、文化が街に根づいたことにはならない。市民は文化の消費者ではなく、文化をつくる主体であるはずだ。

芸術を街に見せるのではなく、街の人がすでに持っている芸術を見つける。

前橋国際芸術祭が「見せてやる場」ではなく、市民も来訪者も、作家も子どもも、みんなで楽しめる場になってほしいと思う。

私は高尚な芸術を論評できるほどの知識を持っていない。ただ、長く前橋で暮らしてきた一市民として、芸術を見せてもらうだけでなく、自分たちも絵筆を握れる街であってほしい。

芸術祭が問われるのは、来場者の数だけではない。

観客だった市民が、一人でも多く表現する側へ回ったか。

祭りが終わったあと、その答えが街のどこかに芽吹いていればよいと思う。