2026-07-11
最近、神社の前を通ると、鳥居の前で深々とお辞儀をしたり、形式ばった仕草で参拝する人をよく見かける。
私の実家は神道を奉じており、神社とは極めて密接な関係にある。にもかかわらず、神社庁が示す参拝の作法が、さも厳格なルールであるかのように世間に溢れていることに、私はどこか違和感を覚える。
かつて、神社は子どもたちの格好の遊び場だった。昔は鳥居にお辞儀などしなかったものである。
本来、神道は自然崇拝や祖霊信仰を源流とする、身近で素朴な信仰だ。それが明治以降、国家によって政治的に利用され、国家神道体制が築かれることとなった。その体制を象徴する施設の一つが靖国神社である。形式化や政治利用の歴史を考えると、今の過剰な作法重視の風潮にも通じるものを感じてしまう。
一昨年亡くなった父も、神道の考え方では、神となって子孫を見守る存在とされている。確かに神様にはなったのだろう。しかし、私にとっては今も大切な父親だ。畏れ敬うというよりは、ただ感謝を伝える相手である。だからこそ、月初めには榊を替え、毎日欠かさず水とお茶、燈明を上げ、手を合わせている。
私は信仰そのものを否定しているのではない。ただ、信仰とは自らの心の内から自然と湧き上がるものであり、作法や形式を他者から規定されるものではないと思うのだ。
だからこそ、昨今の皇室典範改定をめぐる議論が、神道を再び政治的な道具として結び付ける方向へ進まないことを切に願っている。
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