議事録を読んでの考察:都市・田舎の自由と「設計・施工分離」について
先日の会議議事録を拝読し、特に1960〜70年代の思想的熱気や構造主義批判についての議論から、建築の本質に関わる重要な示唆を受けました。彼らの「言葉や概念で世界を切り拓き、新しいイデオロギーを構築しようとするエネルギー」に敬意と憧れを抱きつつ、私自身の身体的実感から、建築における「システム」と「生の営み」について以下の通り考察をまとめました。
本勉強会が首都圏と地方(長野・群馬)のメンバーで構成されているように、私たちは日常的に異なる環境の空気を吸っています。これは単なる地域的な対立軸ではなく、世界を捉える「視点の本質的な違い」を示唆しているのではないでしょうか。
1. 都市と田舎における「自由」の二面性
現代における人間の生き方は、都市と田舎で「自由」の本質が大きく異なると感じます。
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都市の自由(かごの中の自由): 巨大な社会インフラという「かご」に守られ、その構造(システム)の内部で機能的に生きる自由。
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田舎の自由(自己完結型の自由): インフラに依存せず、自然というカオスを相手に、自分の全責任において大地から直接「生の実感」を掴み取る自由。
この構図は、近代建築が推し進めてきた「設計・施工分離」というシステムの功罪と完全に重なり合います。
2. 「設計・施工分離」とは都市型システムの完成である
近代建築における「設計・施工分離」とは、頭脳(設計)と身体(施工)を明確に切り離す構造主義的なシステムです。
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言葉と記号による支配: 設計者が建築を「図面」や「仕様書」という抽象的な記号に翻訳し、施工者がその通りに間違いなく組み立てる。だれが作っても同じ品質が担保される「交換可能性」の追求。
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バグとしての即興性: そこでは、職人のその場の即興性や、大地の固有のコンディションといった不確定要素(自己完結性)は、排除すべきバグとみなされます。
これは、建築を自然から引き離し、人間がコントロールできる機能的なインフラ(かご)にするための、極めて効率的な近代の知恵でした。
3. 「設計・施工の未分離(一体)」が持つ大地の思想
一方で、古くからの農の営みや、田舎での小屋作りのような世界では、設計と施工はそもそも分離していません。 あらかじめ完璧な図面があるわけではなく、目の前にある木の曲がり具合、土の湿り気、その日の天候を見ながら、その場で「どう作るか」を身体で判断していく、いわば「身体と大地のダイアローグ(対話)」です。
西洋の近代哲学(ハイデガーやドゥルーズ)が、頭で理屈をこねくり回した果てに「大地に棲まうこと」や「雑草の生命力(リゾーム)」という結論に至ったのに対し、東洋の農の営みや日本の自然観(諸行無常)は、毎日の丁寧な繰り返しのなかに、最初からその真理を宿していました。
結び:二つの「平行線」を見つめて
現代の建築実務において「設計・施工分離」は、透明性の確保や品質管理のために不可欠な正義です。しかし、それが行き過ぎれば、建築から「土の匂い」や「手触り」、そこで人間が泥臭く生きるという「実感」が削ぎ落とされ、ただの記号の箱になってしまいます。60〜70年代の建築家たちが激しく議論し、構造主義を批判したのは、まさにこの「システムに人間が飼い慣らされていくことへの危機感」だったのではないでしょうか。
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構造計算や都市計画の「硬いロジック(都市の熱気)」の線
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そこに差し込む光の揺らぎや素材の肌触りという「身体の実感(田舎の静寂)」の線
首都圏のインフラの中に生きる視点と、長野や群馬の大地を背負って生きる視点。この2つはどれほど理屈を尽くしても交わらない「平行線」かもしれません。しかし、どちらかが優れているという話ではなく、交わらないからこそ、お互いが引き立つ「憧れの鏡」なのだと思います。この2つはどれほど理屈を尽くしても交わらない「平行線」かもしれません。しかし、図面という記号に向き合いながらも、与えられた制約(不自由)を受け入れ、そこに差し込む嘘のない光や現実を「自分の感覚で調律していく」ことこそが、建築の本質であると考えます。
イデオロギーの熱気から一歩身を引いた場所で、このシステムの持つ利便性と、そこから溢れ落ちてしまう大地の思想の双方を冷静に見つめ直すこと。それこそが、これからの建築を考えるうえで大切な視座ではないかと感じております。
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