ミラーレスと対峙する「指先の記憶」―― α7Ⅳによる所作の再考
私の写真体験の原点は、ファインダー内の指針を追いかけることにあった。かつてのフィルムカメラにおいて、ASA(ISO)100を装填するということは、その日の「光の予算」を確定させる儀式であった。手振れ補正のないレンズで夕暮れ時の微かな光を掬い取る作業は、呼吸さえも制御下に置く真剣勝負を強いた。
絞りを開放すれば被写界深度は極端に浅くなり、パンフォーカスを狙えば圧倒的に光量が不足する。この不自由さと格闘し、一枚の重みを噛み締めていた時代の所作は、今も私の指先に深く沈殿している。
現在の相棒であるSONY α7Ⅳは、露出、シャッター速度、ISO感度の「三種の神器」をすべてカメラ上辺のダイヤルで掌握できる優れた操作系を持つ。基本をF8.0に据え、被写体に応じてシャッター速度を操り、暗所ではISO感度で帳尻を合わせる。右手の親指と人差し指だけで光を統合するこの操作感は、まさに一眼レフ時代の「撮る悦び」の継承である。
しかし先日、痛恨の失敗を犯した。 ミラーレスのファインダーとは、本質的に「ビデオモニター」である。設定の過程で、眼に見える像と、内部的な撮影条件を乖離させてしまったのだ。ファインダーには適正露出の美しい像が映し出されているにもかかわらず、実際の設定は暗所用のまま。さらにISOオートが限界まで機能した結果、シャッターを切った後に現れたのは、光に塗りつぶされた「真っ白な画面」であった。
一眼レフならば、露出計の針の振れやシャッター音の違和感で直感できたはずのズレ。ミラーレスの「親切すぎる表示」が、現実の光と設定の齟齬を覆い隠してしまったのである。
長年染み込んだ所作が、最新のビデオスチルカメラの本質と衝突している事実に気づくには、この「白とび」という代償が必要であった。カメラで何を楽しむか。スポーツ写真のような動体の世界もあろうが、私のような人間には、じっくりと被写体に向き合うスチルの時間にこそ本質がある。
今回の失敗を情けないと断じるのではなく、新たな初心への扉としたい。基本所作を重んじつつ、現代の強力な手振れ補正や高感度耐性、そしてRAW現像という最終工程を味方につける。デジタル化によって写真の愉悦はさらに深化したのだ。真っ白な失敗さえも、次の一枚を輝かせるための知的なプロセスとして、私はこの新しい相棒と共に再び光の中へ踏み出そうと思う。
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