鉄道写真の本質──公共空間としての鉄道と、その周縁にある時間について

雪の降った翌日、わたらせ渓谷鐵道の無人駅を訪れた。
この駅はかつて有人駅であり、当時の施設がほぼそのまま残っている。現在は、東武鉄道から譲り受けた旧特急車両を食堂として再生し、観光施設としての一面も併せ持つ。鉄道の利用がなくても、乗用車で訪れ、ホームで弁当を買ったり、食堂で食事をしたりすることが許容されている特異な駅である。

雪に沈む跨線橋やホームの風景には、こうした歴史層と地域性がそのまま折り込まれている。単なる無人駅ではなく、地域が“文化資源”として保ってきた空気が漂っていた。

その静けさのなかで、ホーム中央に三脚を立てて撮影するグループの姿が目に入り、違和感を覚えた。通行の導線上に堂々と機材を広げ、公共空間に対する配慮が乏しく見える振る舞いである。外見からは私と同世代と思われ、分別のある年代だからこそ、節度が期待される立場でもあるだけに、落差が否応なく目についた。

鉄道写真に向き合う際、私は「まず乗る」ことを自身の流儀としてきた。
鉄道は撮影対象である以前に、地域の生活を支えるインフラであり、乗車や駅での買い物といった些細な行為の積み重ねが、その存続を支える。今日のように乗用車で訪れた場合であっても、食堂を利用し、駅に関わることで、最低限の筋を通すことができると考えている。

しかしこの日、正午近い時間帯であったにもかかわらず、駅の食堂を利用したのは私一人であった。
地域の方々が手作業で維持する観光施設としての駅でありながら、利用者は少ない。そんななか、食堂の方がホームを横切る際に「邪魔になっていませんか」と丁寧に声を掛けてくださった。こちらが鉄道を利用していないにもかかわらず向けられたその気遣いに触れ、鉄道を支えているのはこうした人々の静かな努力であると改めて思い知らされた。

鉄道写真とは何か──。
私は、鉄道写真を単なる機械的美しさの記録として捉えてはいない。鉄道とは公共空間であり、地域の移動を支え、生活を運び、時間を刻んできた存在である。
その風景には、取り残された施設、風化した構造物、雪をまとったホーム、そこに生きた人々の痕跡など、多層的な“時間”が堆積している。

撮影者がその時間にどう向き合い、公共性をどう受け止めるか。
それこそが鉄道写真の質を決める。鉄道を舞台装置のように扱い、公共性を意識しない撮影態度は、写真の文化的厚みを著しく損なう。一方、鉄道と地域社会への敬意を保持しつつ、利用という形で関わることで生まれる写真は、構図の巧拙にかかわらず、時間の厚みと土地の記憶を写し取る力を持つ。

雪に包まれた無人駅の静けさの中で、私は改めて思った。
鉄道を撮るという行為とは、列車の姿を追うだけではなく、
地域の時間、公共空間としての鉄道、そして支える人々への敬意に対して、撮影者がどう向き合うかという姿勢そのものである。

写真とは、世界との静かな対話である。
鉄道写真もまた、公共性の延長線上に自らの立ち位置を確かめながら、その対話に身を置く営みであると感じた。