戦争と選挙
今回の選挙ほど「戦争」という語がSNSで頻繁に飛び交った時期はない。しかし、その言葉の使われ方には現実への接地感が乏しく、議論が空中戦のように漂っている印象がある。戦争を語るということは、歴史と構造の両面を踏まえなければ成り立たない行為である。
『失敗の本質』を初めて手に取ったのは、軍国少年だった父の影響で、私自身が軍事に関心を持っていたからである。
しかし読み進めるにつれ、同書が示す論点は軍事のみにとどまらず、経営や組織の意思決定にも深い示唆を与えるものであると痛感した。
情報軽視、根拠なき楽観、精神主義、異論封殺、学習の欠如――これらは国家に限らず、企業でも容易に再現し得る“失敗の構造”であり、私自身経営者として思い当たる節が多く、反省を促された記憶がある。
零戦の例を挙げるのは、性能の善し悪しではなく、戦争が飽和攻撃と補給、工業力と持久力という冷徹な構造で規定されることを指し示すためである。
二万に迫る勢いで量産された機体が、終戦時に千余機しか残らなかった事実は、戦争における「継戦能力」の脆さそのものである。
現代でも構造は同じである。
航空自衛隊の二百六十機に対し、中国側は二千二百八十機規模とされる。
この非対称性を前に、「戦争をする」という言葉がいかに現実を欠いたものかは明らかである。戦争とは意志ではなく、総力と時間軸の勝負である。
そして、戦争がもたらす最大の犠牲のひとつは、個人の自由の剝奪である。
戦争状態に入った国家は、総動員体制へ移行し、生活、判断、思想の各層が国家目的の下で再編される。
隣組や国民精神総動員の仕組みが象徴するように、自由は法より先に“空気”によって奪われる。
1945年の前橋市の空襲で一晩に五百名以上が焼死した事実は、戦争が市民生活に与える破壊が、いかに突発的で絶対的であるかを示している。
私自身、空襲跡が遊び場だった程度の記憶しか持たないが、叔父は上海で戦死している。
戦争とは国家規模の出来事であると同時に、個々の家庭と人生を深く揺るがす現実である。
同書『失敗の本質』を通じて学んだのは、間違った構造と思考が反省なく積み重なると、国家も組織も破局へ向かわざるを得ないということである。
そして、いま社会に漂う“慎重さを欠く空気”には、その再現を感じざるを得ない。
普段、政治的なテーマには距離を置いてきた。しかし今回は、歴史の実相と組織の失敗構造が再び姿を見せつつあるように思われ、この気配を前にしては、どうしても書かずにはいられなかった。
戦争という語を使う者は、その背後にある構造と歴史的失敗を理解し、同調圧力に飲み込まれぬよう、自らの判断軸を確かなものとして持たねばならない。
これこそ、民主社会にとっての最初の防衛であると考える。
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