早いもので、父が亡くなってから二年が経った。父の好物であった「甘太郎焼き」を神棚に供えようと店を訪ねたが、あいにく休みだったため、スズランで和菓子の詰め合わせを用意して進ぜた。

父は、いわば軍国少年がそのまま大人になったような人で、愛読書は軍事雑誌『丸』であった。いまも本棚には何冊かが残っている。昭和五年生まれの父は、敗戦時十五歳。工員として中島飛行機前橋工場で働いていたという。当時としては社会保険制度も比較的整っており、そのときの年金は、いまも遺族年金として母に支給されている。

父は、キ84――通称「疾風」――の前輪降着装置の加工に携わっていたといい、その仕事の成果をよく自慢していた。とはいえ、実戦経験があったわけではない。
父の長兄は、上海事変の際、市街地で中国人ゲリラの狙撃に遭い戦死している。幼い父にとって、戦争の実相とはどのようなものだったのか。知りたいという思いが、生涯消えることはなかったのかもしれない。

いま、衆議院選挙のさなかである。戦争を経験していない世代が、軽々しく戦争を語る、どこか不穏な世相を感じる。敗戦後、日本は地政学的に東西冷戦の最前線に置かれながら、アメリカの庇護の下、ひたすら経済再建に取り組んできた。

政府は、ときに無理難題を突きつけられながらも、「我慢」の一語でこれをしのいできたと言えるだろう。 無責任な視点で見れば、なんと腰の引けた姿勢だろうと思ったこともある。しかしそれは、経済再建を最優先とする国家方針を一貫して守り抜いてきた結果でもあったはずだ。

トランプ氏は外交に「ディール」という言葉を持ち込み、政治は道義ではないと公言する。その結果、方針は頻繁に変わり、日本を守るという言葉さえ取引材料に過ぎなくなる。 そのような相手から距離を取り、独自の道を歩もうという主張は、たしかに勇ましく響く。だが、かつて圧倒的な国力差を認識しながらも、意地と誤算によって戦争に踏み切った経緯について、私たちは本当に十分な検証を終えているのだろうか。

あまりにも大きな犠牲に対し、国家として明確な責任の取り方が示されたとは、いまなお思えない。 父のことを書きながら、どうしても現在の空気に思いが及ぶのは、勇ましい言葉が、いつの時代も当事者でない場所から発せられやすいからだ。父の軍国少年としての記憶と、いま私たちが耳にする言葉とのあいだには、断絶ではなく、むしろ不気味な連続性があるように思える。

軍国少年は、実際に戦場の最前線に立つことはなかった。だからこそ、勇ましい言葉が生き延びたのだろう。だが、いまの若い人たちには、同じ位置から、同じ言葉を発してほしくはない。
同じ過ちを、繰り返すわけにはいかない。