あっけない、意外な結果であった。市民の関心は、日々の何気ない生活の安寧を願うことにあった、ということなのだろうか。ビジョンの大きさよりも、である。ミクロな視点も重要ではあるが、それだけでは解決できない課題が多いのも事実である。マクロな視点として、合併後の前橋市域全体を見据えた再構築の戦略策定は、依然として喫緊の課題である。小川市長には、この点にもぜひ注力してほしい。

今回の前橋市長選を眺めていると、それはあたかも、眩い「ロマン」を語る言葉と、日々の営みを守ろうとする「現実主義」との間に横たわる、埋めがたい溝を露呈したかのように見える。そして結果として示されたのは、生活者の現実主義の優位であった。

ある種の理想を掲げ、外部からの評価や刺激によって街を塗り替えようとする動きは、確かに一つの「知」の提示ではあった。しかしそのロマンは、結局のところ語り手それぞれの着地点で分散し、市民一人ひとりの「生活の実感」という、より泥臭く切実な場所にまで届くことはなかったように思われる。

一方で、私たちが日々感じている生活感覚は、驚くほどシンプルであり、同時に強固である。「まっとうに暮らせること」「政治が誠実であること」。この当たり前の感覚、いわば暗黙知の前では、華やかなビジョンも、あるいは目を覆いたくなるようなスキャンダルでさえ、ある意味では「リセットの対象」に過ぎないのかもしれない。生活者は複雑な理屈を求めているのではなく、ただ「当たり前の安心」という原点に立ち返ることを選ぼうとしている。そう考えると、今回の選挙に漂っていた「リセット容認」の空気の正体が、うっすらと見えてくる。

改めて「前橋とは何か」を問い直すと、高崎のような商都の喧騒とは異なる、より内省的で落ち着いた空気が、この街には流れていることに気づかされる。水と緑、そして詩。かつて謳われたその情緒は、いまや市街化調整区域が象徴するように、断片化され、分断されたまま残されている。周辺の農村部も含め、このバラバラになった街の欠片を、いかにして繋ぎ直すのか。

私たちが求めているのは、誰かが描いた完成予想図ではない。「商業中心ではない、この落ち着いた空気」を、前橋という街の揺るぎないアイデンティティとして、あらためて育て直していく力ではないだろうか。

ロマンを現実の暮らしに浸透させるためには、周到な準備と、生活者の視線まで降りてくる覚悟が不可欠である。投開票を経て、この街が再び「自分たちの場所」としての手触りを取り戻せるのか。その答えの手がかりは、街の風景の中に、静かに潜んでいるのかもしれない。