一月は、かつて一緒に暮らした三人の家族が亡くなった月である。
祖母の命日に合わせ、墓参りをする。
妹、祖母、父。それぞれ別れ方は異なるが、墓前に立つと、どうしてもその時々の情景がよみがえる。
実体としての存在はすでにない。それでも記憶の中には、共に過ごした日々の些細な出来事が確かに残っている。
一年に一度、こうして反芻する機会があるからかもしれない。
妹が亡くなった晩のことは、今でもはっきり覚えている。
何も知らずに帰宅すると、家中の電気がすべて点いていた。玄関に入ると祖母が泣き崩れており、そのまま葬儀へとつながっていった。
亡くなる直前、ブーツを買ってやった。成人の祝いに、いちごのショートケーキも用意していたが、それは無駄になってしまった。
ブーツは棺に入れ、一緒に送った。丸い靴ひもを通す金具は、今も骨壺の中に収まっているはずだ。
祖母は肺がんで亡くなった。春先から胸の痛みを訴えるようになり、五月には家族に余命が告げられた。
残された時間をできるだけ共に過ごそうと、病院にはほぼ毎日通った。
九月には一時持ち直したようにも見えたが、十月に入ると徐々に衰え、がん性の腹水がたまった。
小脳への転移のためか、強い痛みを訴えることはほとんどなく、静かに息を引き取った。
父は熱中症をきっかけに緊急入院し、その後、転院、老健施設、老人ホーム、再び老健施設と療養を続けていた。
年の暮れに肺炎を発症し、わずかな間に衰弱して亡くなった。
当日は、母が通う老健施設で会議があり出席していたが、帰路の車中で病院から急変の連絡が入った。急いで駆けつけたものの、間に合わなかった。
別れ方はそれぞれ異なる。
それらの記憶を、引き出しの取っ手に手をかけるように、一つずつ開いていく。
良かったこと、悪かったこと、うれしかったこと、悲しかったこと。
そうした諸々を思い出すのが、一月という月なのだ。
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