最近の私の撮影における作法は、絞り値をf/8から13あたりまで絞り込み、被写界深度を十分に稼ぐことを旨としている。被写体の動態を止めるべくシャッタースピードは1/250秒を基準とし、露出の過不足はデジタルの恩恵である感度調整に委ねるのが常だ。
顧みれば、フィルムの感度に縛られていた時代、我々は一点の光をも惜しみ、開放F値の明るいレンズを切望したものだった。大三元と謳われるf/2.8や、あるいはf/1.2といった「明るさ」は、暗所という障壁を乗り越えるための、いわば絶対的な正義であった。しかし、現代の高度な高感度性能は、我々を「無理な低速シャッター」という手ブレの恐怖から解放してくれた。もはや、いたずらに被写界深度を犠牲にしてまで「明るさ」を追う必要は、機能主義的な観点からは乏しいと言わざるを得ない。
私にとっての「佳いレンズ」とは、過剰なスペックを誇示するものではなく、適当な絞り値において十全な描写を示し、かつ軽量・簡素で、懐にも優しい設計がなされたものである。現在愛用している SIGMA 28-200mm F3.5-6.3 DG | Contemporary や TAMRON 28-300mm F/4-7.1 (Model A074) は、まさにその実用主義の極致とも言える製品であり、国産サードパーティの良心を感じさせる。

私がソニーの光学製品にそこはかとない親和性を抱くのは、その源流の一つに、かつての名門「ミノルタ」の血脈が流れているからに他ならない。五十五年前、私が初めて手にしたのは、ミノルタの MC W.ROKKOR-HG 35mm F2.8 であった。その端正な描写と実用を重んじた造り込み、そして手に伝わる金属鏡筒の冷ややかな感触は今なお私の道具観の根底にある。
しかしながら、近年のソニー純正レンズの価格高騰には、些か首を傾げざるを得ない。なるほど、中庸をゆく模範的な写りを誇った FE 24-105mm F4 G OSS を手放したことは今なお痛恨の極みであるが、現代の純正レンズ群は、もはや良識ある愛好家が気軽に愉しめる範疇を超えつつある。上級国民ではない己の立ち位置との間に埋めがたい齟齬を感じるとき、あえて純正を避けるのは、私なりの慎みと、国産メーカーの気概を応援したいという些かの拘泥からだ。
とはいえ、手元の SIGMA 24-70mm F2.8 をα7 IVに設え、その堂々たる佇まいを愛でるひとときは、理屈抜きに愉しいものである。昨今のSNSに流れる、数値のみを追った浅薄な言説を余所に、道具を愛で、歴史を慈しみ、光を操るという行為の奥行きを静かに噛み締めている。
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