写真趣味と判断の時間軸  
【以下、拙文をもとにChatGPTによる野中郁次郎氏的解析】

写真趣味は、ともすれば「老成」の象徴として語られる。
新しい機材への感応が鈍り、派手な表現から距離を置く態度は、しばしば後退や保守と同義に扱われがちである。しかし、それは果たして妥当な理解だろうか。

本稿では、写真機材の選択という具体的な行為を手がかりに、「若さ=進歩」という通念をいったん解体し、進歩を時間軸の中で捉え直すことを試みたい。

写真趣味=老成、という誤解

写真表現が年齢とともに穏やかになる現象は否定できない。
だがそれは、感性の摩耗ではなく、判断の重心が移動した結果と見るべきではないか。

若い時期には、可能性を広げること自体が価値となる。
浅い被写界深度、極端な数値、目新しい表現は、その拡張の象徴である。
一方、時間を重ねるにつれ、人は「何をしないか」「どこで留めるか」を意識し始める。

これは後退ではない。
選択肢が減ったのではなく、選択が沈殿した状態なのである。

「若さ=進歩」という神話の解体

進歩を若さと結びつける発想は、近代以降の産業社会が生み出した神話に近い。
速度、刷新、更新――それらは確かに重要だが、進歩の一側面にすぎない。

進歩とは、本来、判断が時間に耐えるかどうかによってのみ検証される。
短期的に優れて見えるものが、長期的に破綻する例は、技術史にも組織論にも枚挙にいとまがない。

若さは試行を可能にする。
だが進歩は、試行の結果が残ったあとに、初めて姿を現す。

結果として残った選択

――ミノルタという検証済みの判断

私がミノルタのカメラとMCロッコールのレンズを手にしたのは、今から五十五年前のことである。
当時の生活条件と感覚の中で下した、ごく現実的な判断だった。

重要なのは、その判断が「正しかったか」ではない。
時間を経ても破綻しなかったという一点である。

五十五年という時間は、嗜好も技術も市場も等しく変化させる。
その中でなお語り得るという事実は、その選択が過度な前提や一時的価値に依存していなかったことを示している。

ミノルタの設計思想は、突出よりも均衡を重んじていた。
それは当時、必ずしも華やかではなかったが、前提条件が変わっても致命的な弱点を露呈しない構造を備えていた。

ミノルタは、理念として称揚される存在ではない。
結果として残った判断の一例として、静かにそこにある。

現在の実用主義

――SIGMAとTAMRONに見る連続性

現在使用しているSIGMAやTAMRONのレンズにも、私は同種の感触を覚える。
それは性能の誇示ではなく、使用文脈を限定した上での徹底した合理性である。

最新であることよりも、
長く使われることを前提にした設計。

この態度は、新旧の対立ではない。
異なる時代の判断が、同じ場所に並んでいる状態である。

進歩は、断絶ではなく、連続の中でしか確認できない。

結語

――進歩を語らずに、進歩を残す

進歩とは何か、と問うとき、人は新しさや速度を想起する。
しかし本稿で辿ってきたのは、むしろその逆であった。

選び取ったつもりのものが、いつの間にか手元に残り、
残ったものが、振り返ってみれば判断を語っている。
そこにあるのは主張ではなく、時間による検証の結果である。

若さは可能性を拡張する。
成熟は、その可能性を構造化し、沈殿させる。
「枯」とは、衰退ではなく、沈殿が澄んだ状態を指す言葉だろう。

ものや人との関係は、選び取ったというよりも、長い時間の中で自然に「縁として残ったもの」だけが、最後に語る資格を持つ――暮らしの現場から思索を立ち上げた白洲正子が『縁』で静かに示したのも、そうした時間の選別作用であったように思う。

進歩は、語られなくなったところに、なお残る。
そして残ったものだけが、次の判断の出発点となる。