
もう10年かという思いと、10年経ったのかという思いが交錯する。
東松島市を災害支援で訪れたのは2011年4月19日のことだった。情報が錯綜し、福島第一原発は危機的な状況下、JIAの被災者支援活動に参加。JIA群馬の仲間と乗用車に分乗し、名取市に8時30分に展開できるよう深夜の東北道を走った。
線量計は持っていなかったが福島県を通過する際は気持ちの良いものではなかった。名取市役所で東松島市で活動するように指示を受け東松島市役所に移動。すでに一ヶ月以上経ってはいたものの犠牲者捜索は続いていて街中忌中の張り紙がはられている異様な光景を目の当たりにする。農地も宅地も区切りなく泥の海。自家用車が波に漂う如く泥の中から見え隠れしていた。
東松島市役所では他の自治体から派遣された事務職の人たちの応援が主となってしまった。現地の職員自体が被災者であるし、罹災証明の発行など普段扱うことのない事務処理で応援を含めてんてこ舞い。
被災者は妙に落ち着いた様子で淡々と被害状況を語るのが痛々しい。
被災した住宅の復旧どころではない事態だったがすでに怪しげなリフォーム業者も入り込み始め住民から今の住まいが再使用に耐えるかなどの相談も受ける。
昨日は福島第一原発の廃炉作業のTV番組を見る。結局いつ作業が終わるな全く目処が立っていないようだ。地震計が壊れても放置するような東京電力と監督する国のこと。アリバイ作りで活動しているようにしか見えない。
本当に「アンダーコントロール」というのであればオリンピックどころの話ではないのではないか。汚染水処理も極めて曖昧な結論引き伸ばし、タンクをどんどん増設するしかないのでは。海にこれ以上負荷をかけるのは国際的信用を失うことになるだろう。原子力発電に将来性が見込めないと新しい技術者の養成が困難になりつつあるとか。現職も当面の廃炉スケジュール40年後が来る前に定年退職することであろう。時間との勝負である。
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