
1月9日は前橋初市。すぐ近所だし、ハレとケのけじめがはっきりしていたころは楽しみに待つ行事の一つだった。
成年会で活動していた時期は甘酒売りやバリケードの後片付けなど参加していたが仕事場が隣町に移って以来足が遠のいてしまったがいずれ自治会の仕事として復帰するのかなと思う。
赤いだるまを売る威勢の良い掛け声が響いていた。
午後からは上京しJIA保存問題委員会に出席した。
JIA(公益社団法人日本建築家協会)、一般の方々にはなじみの薄い団体だが建築設計監理を行なう建築士の集まりで施工を分離する仕事の仕方を原則とする。
もともと日本では大工の棟梁が請負師を兼ね設計から施工まで一貫して仕事をすることが一般的だった。
江戸時代初期に織田信長の元家臣が起業した竹中工務店や富山県から江戸末期に江戸に出て起業した清水建設などがこれらにあたる。
いっぽう明治時代になり、西洋建築の字術取得を目的に招聘されたジョサイア・コンドルに教えを受けた辰野金吾らが造家学会を設立し、この流れが日本建築士会となり、やがて建築士法制定により建築士法に建築士の称号を譲り、あらたに日本建築家協会を設立した。この当時はたいへんなエリート集団であったらしい。ただし、社会的な発言力に乏しいことなどから丹下健三氏などの呼びかけで日本建築家協会と日本設計監理協会連合会が合併して出来たのが現在のJIAである。
この会には前職の時代1987年に加わりもう28年もお世話になってしまった。
東京に出かけるだけでも緊張するのに著名建築家の方々を講師にした「建築セミナー」に一年間通って非常に刺激にも勉強にもなった。
また建築家としての矜持をもつことの意味も教わったと思う。現在の行動規範である。
また多くの友人を作ることができた。全部でも5000人弱の会であり、顔が見える組織であり風通しのよさが魅力でもあった。
経営規模、年齢にかかわらずフラットな付き合いが出来るのまた魅力のひとつである。
そのなかで保存問題委員会の置かれた立場は非常に難しいものがあることを知った。
いうまでもなく保存とは解体されてしまう建築を客観的に評価し、必要とあれば保存のための行動を起こす委員会である。
しかしその一方で解体し新築の仕事をしている会員、会員企業も並存する。この内部矛盾を避けて通れない宿命を持った委員会なのだ。
しかもいったん行動に移すと解体・建設側の行政、組織、企業の利害関係とも調整を要すことからとにかく慎重な判断が求められる。
自分が在籍するの2年足らずだが長年かかわってこられた多くの委員の苦労は並大抵のものではなかったと思われる。
なにがその情熱を支えるのか未だ理解できない点も多いがとにかく大変な仕事だと思う。
とかく目先の仕事のことしか浮かばないものだ。しかし建築を単に仕事の対象としてだけでなく大切にしている人たちとの交流もまた貴重な経験だった。
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