今日、JIA(日本建築家協会)から「東日本大震災JIAの活動と復興への展望」のCDが届く。
JIAが大震災に関わった記録のまとめである。

今、我が身にも降りかかっている福島第一原発よりの放射性物質の関心を除けばやはり震災の記憶は遠のいている。
過去数回の地震に対する活動と比べ、やはり今回のはきつかった。
東北支部のJIA会員は自身が被災者であるにもかかわらず、健闘された。そのことに今更ながらハッと気がつく。
所詮傍観者であったのかとの思い。
多数の人が亡くなるという異常事態のなかで活動のこと、淡々と身内の不幸を語る被災者のこと、活動されたJIA会員の記事の行間から当時を思い出した。

犠牲者や被災者の苦難を無にしないためには自然災害への正しい対処方法の確立しかない。
過去の地震の研究成果が生かされていなかったということがある。経済的事情が優先されていたこともある。
阪神淡路と大きく違うのは都会と地方という違いだ。
すでに神戸の街で震災の爪痕を探すのは難しいほどだが、第1次産業主体の地方の経済力から考えると、地域のコミュニティ、産業そのものの崩壊の懸念がある。
さりとて自分の小ささを痛感するのみだ。

活動の記録(報告書原稿抜粋)
2012年4月20日、21、22日、東松島市において、罹災住宅の復旧に関する相談業務に参加した。これは半壊規模の住宅を復旧するにあたり、損害程度の差による建替えまたは改修等の
選択判断への助言、改修方法の助言、等を市役所内に設けられた窓口に置いて市民の相談に応じるというもので、東北支部会員とともに業務にあたった。
当日は市役所周辺は被害を免れたものの、海岸部はまだ警察官等による行方不明者の捜索が続いている状況であり、まだ住宅の復旧工事に手がつけられる状況ではなかった。
現地到着後、所管課長を訪ね、指示を仰いだが、現地市役所職員は庁外での活動で手いっぱいの状況で直接の指示は東北支部会員青森地域会会長、佐々木弘男氏より受け、活動を開始した。
市役所玄関ロビーに長テーブルを置いて作られた窓口であったが、他の窓口業務の誘導は他県からの応援の職員で行われていた。
相談というよりは罹災証明書の申請の方法や他窓口の誘導まで市役所職員の一部という内容も多く受け持った。すなわちまだ住宅の復旧まで思いが廻らないというのが当時の状況だった。