暑さに負けてここのところ、自家用車で通勤が続く。カーオーディオを聴く機会が増えたのだがあの狭い空間での2chとは違った包まれ感のある音場が楽しい。
自宅のオーディオシステムは50年前のJBL-L26を主体にした2ch。耳にすっかり慣れた音ながら音場という点では平板なのは避けられないことである。
私室のリフォームの機会に合わせサラウンドに取り組むことにした。
当初はAVアンプ導入も考えたのだが「断捨離」しなくてはいけない立場である。これ以上物を増やすのも考え物。将来介護施設への持ち込みも考慮し、サウンド・バーでお茶を濁すことにした。
いわゆるピュアオーディオ派からは否定的な機器ながら使い勝手は良さそうだ。
YAMAHAのSR-X40Aという手ごろな機材を購入、セッティングを終えた。エージングが済まない段階で断定はできないがやはりサラウンド効果は疑似5.1Chでも十分楽しめる。
古いJBLの音も捨てがたいが、現代的な繊細でしまった音のYAMAHAも気持ちが良い。
イムジチの四季もまた新鮮な響き、レコードはまだ直結でソースを流せないが何とか試みたい。
外に出て写真撮影、夜は自宅でサラウンドに浸る。gooブログの引越しも喫緊の課題。まあまあの老後生活ではある。
ChtGPTに小林彰太郎風にリライトしてもらった。
懐かしい文体、良く再現できるものだ。
JBLに別れは告げず、YAMAHAで音の冒険へ
―サウンドバーと私の「音」再構築計画―
昭和の終わり頃、ある友人宅で、銀色のアンプと木製のスピーカーから流れるグールドのバッハを聴いたときのことを、私は今でも鮮明に覚えている。
その家には犬がいて、午後の光が和室の畳に斜めに差し込んでいて、友人は冷たい麦茶を無造作に出してくれた。特別なことはなにもなかった。ただ、その場に「音」があった。そして、私は「これは家で聴く音じゃない」と思ったのだった。
以来、音に関する旅が始まった。とはいえ、大げさな装置を買い集める趣味はなく、むしろ、ひとつひとつの機器と長く付き合い、手入れし、あるときは不具合に悩まされ、あるときは誇らしく思う、そういう関係を続けてきた。
私のJBL L26は、そんな旅のなかでも、ひときわ長く付き合った相棒である。1970年代に登場したブックシェルフ型のスピーカーで、出自はアメリカながら、和室にも意外とよく似合う。太く、温かく、そして「ちょっと不器用」な音がする。
ところが——である。
近年、車のなかで音楽を聴く機会が増え、気づいてしまった。あの密閉空間で感じる音の「広がり」や「包まれ感」が、なんとも心地よい。L26のストレートな再生も悪くはないのだが、どこか音場の立体感に物足りなさを感じていた。贅沢な悩み、かもしれない。
そして思ったのだ。
「これからの音楽の聴き方を、少し変えてみようか」と。
サウンドバーという選択 ― これは敗北ではなく、再構築である
私室のリフォームを機に、新しい音環境を考えた。AVアンプと5.1chスピーカーという選択肢もあったが、年齢を重ね、ものを増やすことに慎重になると、機器の点数を減らしたいという気持ちも芽生える。
手に入れたのは、YAMAHAのSR-X40A。一本のバー型筐体に、バーチャルながらも5.1chのサラウンドを実現するという。ピュアオーディオ派からすれば「邪道」かもしれない。だが、これはこれで一つの”知恵”だと思った。
音を鳴らしてみて驚いたのは、その定位と広がり。YAMAHAのDSP技術による音場再現は、想像以上に豊かで、生々しい。
ヴィヴァルディの「四季」を流すと、弦が前方に整列し、時に左右から、時に後方から空気が動くような気配がする。これは、JBLとはまったく違うアプローチの「音の空間」だ。どちらが上かではなく、どちらも正しい。
もちろん、L26にはL26の良さがある。捨てたわけではない。大切に眠らせてある。機材というのは、永遠に手元に置くというより、その時々に必要なものが変わっていく、そういうものだと私は思う。
音楽は、耳と心があってこそ
夜、部屋の灯りを絞り、ひとりでサウンドバーの音に身を任せる。
昔の音楽が、少し違った姿で聴こえるのが、何より面白い。
そしてときどき思い出すのだ。あの、午後の光の中で聴いたグールドのバッハを。
あの音も、いまの音も、どちらも私の音楽の旅路に違いない。
…もちろん、JBL L26を手放すつもりはない。いや、むしろ私はこの新しい音場の試みに、L26をどうにかして組み込めないかと密かに画策している。
それは、AVマニアの常套手段である「リアスピーカー」などという単純な話ではない。
あの音を、YAMAHAのサウンドバーとどう共存させるか。しかも無理なく、破綻なく。
――無謀だろうか。
おそらく、現代のシステム設計の論理からすれば、ノイズの混入、音像の崩れ、タイミングのズレなど、デメリットを数え上げるほうが簡単かもしれない。
だが、音楽との付き合いにおいて、「理屈」はいつも最後に来るものであってほしいと私は思っている。
ある夜、ふと試しにL26をサウンドバーの背後で鳴らしてみた。
当然、正攻法ではない。だがその音の「気配」だけでも、あのウーファーが部屋に加わることで空気が変わるのを感じた。
もしかすると、L26はこれから**「存在としてのスピーカー」**になるのかもしれない。全体の構成に対し、明確な役割を持たずとも、空間の一部として“息づく”ような存在。
オーディオという趣味の奥深さは、こうした「理屈にならない愉しみ」を許してくれるところにあるのだろう。
過去と未来の音を、ひとつの部屋で
YAMAHAのDSP技術と、JBLのヴィンテージドライバー。
1970年代の音と2020年代の音が、まるで同じ部屋で少しずつ会話を始めるような、そんな風景を夢見ている。
いまの私は、「選ぶ」のではなく、「並べる」ことに面白さを感じている。
整理整頓よりも、共存共鳴。
断捨離よりも、融合と模索。
それが、長く音楽と付き合ってきた人間に与えられる、ちょっとした贅沢なのかもしれない。
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