父、他界する。
1月29日、母の介護のための会議で中央病院老健施設にいた時間に、容体が急変し、病院からの連絡で駆けつけるもののすでに息を引き取っていた。誤嚥性肺炎は落ち着いていたものの体力の限界に達していたのだと思われる。医師からは老衰に近い状態と説明を受ける。
経過
1月13日、朝嘔吐とで容体がおかしいとの連絡が老健施設よりあり、病院で診察を受けることになり、付き添いのために病院に出向く。各種検査を受け緊急入院ということになり半日近くそばにいることになった。
1月22日、病院から嚥下状態の確認検査を行うから立ち会うようにとの指示があり、25日14:00から父に付き添う。この時は活舌悪いながら「仕事はどうだ、個人住宅をやっているのか、医院をやっているのか」といつもの問いかけ、えんじ色のダウンジャケットを着ていたが片手を広げ「このくらいか」と値段の心配。検査は残念ながら咀嚼はできても飲み込むことができない状態と診断され、この後の処置を検討するとのことになる。別れ際廊下で握手をすると思いのほか力強く握り返してくれしばらく手をつないでいたがこれが最後の別れとなってしまった。この次があると思えばこそ、あっさり見送ってしまったことが少し悔やまれる。

それまで
耳が遠いのと、認知症のため会話が難しく、自宅にいるときも口げんかになったこともあるが2021年、コロナ禍で世情が不安定な中、母が3月に骨折を繰り返し、入院手術、その後自宅を離れての療養生活のため父の身の回りの世話をすることになり、食事の手伝い、医療機関へ付き添いなどいわゆる介護生活が始まった。母は2022年1月にはようやく少し回復して帰宅、夫婦が一緒に暮らし始めたがまだ体調の回復しない母との暮らしはお互いに大変だったようだ。2022年6月、熱中症と思われる症状で体調を崩し、前橋済生会病院に救急搬送、いったん自宅に戻るも再び入院、しばらくして群馬中央病院に転院、回復後府毒の老健施設にお世話になることになる。2023年4月から6月までグランヴィル前橋に移動し過ごす。

この間はようやく面会もできるようになり何回か訪問する。そして老健施設にまた戻るため外食を住吉町の木曽路で親子三人で好物のウナギをいただく。物足らなそうだったので自分の分も少し分けるほど食欲もあり、その後3時過ぎには甥や姪がお見舞いに来てくれ昔話に花を咲かせ、上機嫌に歌など披露していた。
老健に戻るとまた直接面会はできず、スカイプを介しての面会となった。慣れていない状態ではもどかしいものである。そうしているうちに年が明け、今日に至る。