食事の時、皿から銘々に取り分けることを「シェアする」というらしい。切り分けるのだから、私はてっきり「Shear」、すなわち「せん断力」のことだと思っていた。
「せん断力」は建築構造力学において、部材を「ずらし、断ち切る力」を指す。軸方向力や曲げモーメントと並んで、建築物に働く主要な力の一つだ。ところが、食事の時のシェアは「Share(分かち合う)」を指すのだという。「分断」と「分配」、同じ響きでもその意味の差はあまりに大きい。
一般的に「シェア」といえば「Share」を指し、日本語ではもっぱら「共有」という言葉で表される。最近この「共有します」という言葉を頻繁に耳にするようになったが、どうにも違和感を感じることが多い。
本来「共有」とは、相互間に共通認識という「通底する土台」があって初めて成り立つものだと思う。「図面を共有します」「画像を共有します」と言う前に、そこには相手の意思確認が必要ではないだろうか。
かつて「画像を共有するので送ってほしい」というメールを受け取ったことがある。
こちらは初耳で、耳を疑った。著作権がこちらにあるにもかかわらず、いきなり「共有」、つまり「あなたと同じ権利を持ちます」と宣言されたに等しいからだ。
もちろん、使用目的や費用等が合意できれば画像を送ることはできる。だが、それはあくまで「貸し出し(ライセンス)」であって「共有」ではない。
そこには「合意の欠如」「責任の回避」「知財への敬意」が決定的に欠けている。これらなくして「共有」などありえないのだ。もしこれが現代の一般的な感覚だとしたら、なんとつまらない社会になったのだろうと思う。
Facebookのあるグループに投稿した際、無断で「シェア」されたことがある。システム上、誰がどのように広めたかが見えないのは、ひどく気持ちが悪いものだ。
同様のケースで、ある方が「一言断ってからシェアしてほしい」とコメントしたところ、「SNSに投稿するのはシェアされるのが前提。嫌なら投稿するな」という別の意見が介されていた。
もしそれがSNSのルールだというのなら、私はもう投稿などできない。
昨今、作者の意図に反するAIの落書きや、紛らわしい改作がネット上を賑わせている。オリジナルかフェイクかを当てることで得意になっている投稿まである始末だ。他人の記事を勝手に改変することへの抵抗感が希薄になり、著作権という概念すら成り立ち得ない状況が生まれている。
そもそもこのブログを開設したのは、こうした「呉越同舟」の気持ち悪さからだった。
自分の書いたことへの責任と存在を示すために、他人と同じページに載ることに抵抗を感じ始めた時だった。品位を欠く投稿や、揚げ足取りのコメントには、もううんざりだったのだ。
とはいえ、そういう自分も時に愚痴っぽい記事を書くことがある。一日経ってからそっと手を入れることもある。だが、それはそれで、自分自身の感覚を確かめるための大切な備忘録なのである。
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