12月19日、新木君から訃報が届く。夕方早上がりして対面する。
先生との出会いは昭和42年3月、前橋工業高等学校(以降:前工)の合格発表日だった。
今も残る北側の実習棟の前に陣取り合格証を受け取りに行くと頭を刈って坊主になれと告げられた。今では考えられないことだが、先生も25歳、クラス担任として初めて受け持つクラス。生徒と真剣勝負で臨むという決意であったのだろうと思う。
一方生徒の側からすれば大きな驚きであった。先に進学していた電気科の先輩からは建築科だけはと聞いていたが冗談だと受け流してはいた。なめられてはいけないと思う先生側の思惑はわずか18歳で老錬な職人たちと渡りわなければならない建設現場という実社会への覚悟を求めたのであろう。

先生といえば小柄ながらリーゼントでちょっと突っ張っている印象。在校中、一度だけ叱責を受けたことがある。実業高校進学というの気のゆるみで遊び惚け学業を疎かにし、いきなり最下位近い中間試験の結果を出した時だった。進学校ではないという一種の挫折感から気を引き締めなおした記憶がある。先生とは授業以外で登校時の校門前での交通整理で1年間、共に緑と白の腕章をして警笛と白手袋を着用して路上で交通遮断を行った。また生意気盛りの私たちは時に先生に多大な迷惑をかけながらも終始かばっていただいたと思う。
就職後も仕事帰りに友人を誘いご自宅を訪ね夕食をごちそうになったこともたびたびある。卒業させていったん縁が切れたはずなのにむしろその後のほうがお付き合いが深まった。長野原高校に転任になる際は同級生がトラックを借り出し、家財をバケツリレー方式で積み込み新赴任地まで同行した。その後も相談事で長野原までもたびたび訪問し、相手をしてくださった。
正月は年始の挨拶に訪問していたがコロナ禍で縁遠くなり、今年こそはと思っていた矢先の訃報であった。8月の時点ですでに奥様からは重篤な状態であると知らされていたが面会はかなわず時間だけが過ぎて行って快方に向かっているものと信じていたのに誠に残念だ。
酒やタバコを好んでいたのでやはり高齢になってその影響が出たものと思う。今日の葬儀では級友も多く集まった。奥様を囲んで正月に年始でお邪魔したようなお清めの席にはなったが収骨となるとそのあっけなさで胸が詰まる。お骨を運びながらなんとも言えない無常感を味わう。
改めて長年にわたるご厚情に感謝しつつ、自身のこれからをあれこれ思考する一日だった。
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