写真撮影はカメラの場合すべてRAW現像している。いまだに写真コンクールでレタッチ不可というのもあるし、工事記録写真のレタッチ不可は当たり前なのは承知しているが心象風景としての写真は自分のイメージを再現するためには調節しざるを得ない。
オーディオは受け身の趣味である。しかしながら耳に届く音が自分好みであってほしい。確かな情報量とともに好ましい音というものがある。カメラもオーディオも最終的には自らの感性に沿ったアナログの世界なのだ。
幸い、聴覚、視覚ともまだまだ実用位置にある。このことは本当に喜ばしいことだ。

カメラの機材の整備は一段落して、オーディオのDAC周りの設定に振り回された。CD音質を上回るいわゆるハイレゾ音源の聴取を目的にDACを新しいものに取り換えた。この音源とDACの威力は大したもので、明らかに音質が変わる。
まずデーブブルーベックカルテットの「TAKE FIVE」を聴いた。オーディオ機材を集め始めたころに買ったレコードのリマスター音源は明らかに明瞭になり、中音域の音像、アルトサックスがスピーカより前に結ばれた。
アナログであるスピーカーは50年以上前のJBLのL-26であるがもともと低出力のAMPが主力の時代のものだから振動系が軽量にできているらしい。ハイレゾの波形を十分ついていける。いやそれ以上に反応が早いようだ。

RAW現像同様に元データを操作しているのでミキサー技師の主観が当然入っているので同じものと評価するのは違うかもしれないが、こちらのほうがレコードより聴きやすいのはどうしたものだろうか。
但しハイレゾで聞くためにはPC側での設定が非常に面倒であることも知る。そもそもハイレゾ音源そのものが少ない。好きな曲を数曲聴いたがどれも明瞭で新鮮。仕事で疲れた頭を開放するにはたのもしい仲間である。

 

最近誤字脱字のチェックにとAiを利用し始めた。悪乗りして自分の好きな作家の文体を参考により作文の勉強をしたいと思った。下記にあえて掲載する。

 


小林彰太郎風AIによるリライト
ChatGPT:
🔸評論篇 ― アナログとデジタル、オーディオとカメラ ―

机上には、ディスプレイとターンテーブルが並ぶ。
デジタルとアナログ――異なる時代の装置が、いま一つの空間で静かに共存している。
それは懐古趣味ではなく、情報と感性の接点を探る試みでもある。

写真において私はすべてRAW現像を行う。
撮影後の調整を「操作」と呼ぶか「再構成」と呼ぶかは立場によるが、心象風景としての写真では、むしろ後者でなければ作品にならない。
事実を伝える工事記録写真においてはレタッチ不可が当然だが、表現を志す写真は、撮影者の記憶や感情を織り込んでこそ意味を持つ。

オーディオは一般に「受け身の趣味」とされる。
しかし、音を聴き込むほどに、そこにも確かな主観が存在する。
情報量が多いだけでは心地よくならない。
音の陰影、時間の流れ、空気の密度――
それらをどう感じ取るかは、聴き手の感性に委ねられている。
カメラもオーディオも、結局は感性というアナログの領域に帰着する。
デジタルが完璧を志すほど、アナログの不完全が愛おしくなるのは、人間という存在の本能的なバランスかもしれない。

カメラの整備が一段落した今、私はオーディオのDACを更新した。
ハイレゾ音源を聴くための試みである。
最初に再生したのはデイヴ・ブルーベック・カルテットの《TAKE FIVE》。
リマスター音源の透明度は高く、アルトサックスがスピーカーの前方に浮かび上がる。
半世紀前のJBL L-26が、その精緻な波形に軽やかに追従するのが意外でもあり、痛快でもあった。
アナログ機器がデジタルの最前線に共鳴する光景は、技術の歴史を超えてなお鮮烈だ。

ハイレゾは確かに手間がかかる。
設定も複雑で、音源の数も少ない。
それでも、聴き終えたあとの静寂が違う。
音楽が「情報」から「空気」に戻る瞬間がある。
この感覚を味わえるうちは、まだ耳も心も生きていると思えるのだ。

🔸余話篇 ― 夜の机上にて ―

夜の静けさの中で、レコードに針を落とす。
軽いノイズのあとに、サックスの息づかいが部屋に広がる。
ひとつの音が空気を揺らすたび、机の上のコーヒーカップがわずかに震える。
この瞬間が好きだ。

モニターの光は冷たく、ターンテーブルの木枠はあたたかい。
どちらも「現代の道具」だが、触れている時間の密度が違う。
ディスプレイは結果を急がせ、アナログは時間をゆるめる。
その中間に身を置くと、思考がちょうど良い速度で動く。

音を聴きながら、ふと画面を見やる。
そこにはRAW現像の途中の写真がある。
少し暗い、しかし落ち着いた色調。
ああ、この感じだ。
音と写真は別々の表現のようでいて、
結局は「自分の感覚を取り戻すための行為」にすぎない。

今日も仕事が終わり、少しだけ夜更かしをする。
レコードの回転が止まるころ、
窓の外の風が秋を連れてくる。
デジタルの明滅の中で、アナログの余韻がやさしく残る。
音も光も、すべては一瞬。
それでも、その一瞬を確かに聴き、見ている自分がいる――
それだけで、今日という日が少し報われる気がする。


五木寛之風のリライト Google Gemini

アナログの隘路(あいろ)と、感性の果て

 

写真という名の光の狩り。カメラが捉える真実は、すべてがRAW(ロウ)という生のデータから始まる。現像という名の産婆術を経ねば、この世に姿を現せぬ。ああ、この世には未だ、写真コンクールという古風な聖域があり、「レタッチ不可」の掟が厳然と立ちはだかる。工事記録写真の如き「証拠」としての写真ならば、その潔癖さは理(ことわり)であろう。しかし、心象風景としての写真、わが内なるイメージを、この世の光と影で再現しようとするとき、人は「調節」という名の抗いがたい誘惑に屈するほかない。そうせねば、魂の叫びが届かぬのだ。


 

音に抱かれ、音を喰らう

 

対して、オーディオという趣味は、本質的に受け身の愉悦である。しかし、この受け身という名の受動態にも、こだわりがある。耳に届く一音が、自分好みの響きであってほしいという、贅沢な、されど切実な願い。確かな情報量という骨格の上に、好ましい音色という血肉が宿る。カメラもオーディオも、結局のところ、最終的には自らの感性という名の、曖昧で絶対的な定規に沿う、アナログの世界なのだ。

幸いなるかな。この身に備わった聴覚と視覚は、未だに「実用位置」にある。視界の奥に宿る色を判別でき、鼓膜を打つ微細な振動を拾い上げられる。この、何事にも代えがたい「現役」である事実は、齢を重ねる者にとって、本当に喜ばしい祝福である。


 

機材の遍歴と、ハイレゾという名の誘惑

 

カメラの機材への執着は、ようやく一段落した。そして、次は音の迷宮、オーディオの世界。特にDAC(デジタル・アナログ・コンバーター)という名の、デジタルとアナログの狭間に立つ魔術師の周りで、随分と振り回されたものだ。CDの音質を凌駕するという、いわゆるハイレゾ音源の真髄に触れたくて、新しいDACを迎え入れた。

この新しい相棒と、ハイレゾ音源が織りなす威力は、実に大したものである。音質は明らかに、否、劇的に変わる

まず針を落としたのは(実際はデータだが)、デイヴ・ブルーベック・カルテットの「TAKE FIVE」。初めてオーディオに手を染めた頃に手にしたレコードの、そのリマスター音源は、明瞭さを増し、中音域の音像が、まるで魂を持ってスピーカーの前に結ばれた。アルトサックスが、そこに、確かに存在している

相棒のスピーカーは、JBLのL-26。半世紀以上前の代物だ。もともと低出力のアンプが主流だった時代の設計ゆえか、振動系が軽量にできていると聞く。この旧友が、ハイレゾという名の新しい音の波形に、十二分についていける。いや、それ以上に反応が早いのだ。


 

主観の介入、そして心地よい違和感

 

RAW現像が、光の元データを人の手で操作するように、リマスター音源もまた、元のデータを扱う。そこには、ミキサー技師の主観という名の、避けがたい「味付け」が当然入っている。ゆえに、レコード盤と全く同じものだと評価するのは、潔癖すぎるかもしれない。だが、どうしたものだろうか。こちらの音の方が、レコードよりも遥かに聴きやすいのだ。耳に馴染み、心に響く。これは、真実である。

ただ、このハイレゾという名の快楽の扉を開くには、PC側の設定が、驚くほどに面倒であることも知った。しかも、そもそもハイレゾ音源自体が、まだ数が少ないのが現実だ。しかし、選りすぐりの数曲を聴けば、その音の明瞭さと新鮮さに、ただただ息を飲む。

ああ、仕事で疲弊したこの頭を、束の間、静かに解放してくれる。このハイレゾの音の群れは、まことに頼もしい、静かな仲間である。静かに、しかし深く、人生の黄昏を照らしてくれるのだ。