ここのところオーディオインターフェースの設置に手間取り、外に目が向かなかったが今日は長野の山に出かける。

熊注意の看板があちこちたち物騒この上ないが、こちらは道端観察のみ。
適度に草刈りをされた道端のほうが山野草を見つけやすい。地面や路面にはあちこち栗のいがが散乱している。

山中深くに入ると、都会の喧騒や政局のざわめきが、遠い世界の出来事のように思えてくる。
澄んだ空気と木々のざわめきに包まれていると、人の営みがいかに小さく、そして移ろいやすいものかを感じる。

けれど、現実はそう単純ではない。
足元の道路や橋などのインフラは、経年劣化や紫外線、凍結によって思いのほか傷んでいる。
新しい道路の建設には注目が集まりがちだが、こうした既存インフラの「保守」(メンテナンス)こそ、実はもっとも大切で緊急な仕事ではないかと感じる。
本来こういう分野でこそ、政治家の手腕が問われるべきなのだと思う。

最近、「保守」という言葉がやたらと使われるようになった。
だが、その中身をよく見てみると、どうも本来の意味とは違う方向に独り歩きしているように思えてならない。
「保守」とは、単なる現状維持のことなのだろうか。
あるいは、既得権益を守ることを「保守」と言い換えているだけではないだろうか。

戦前、日本の経済統制を主導した官僚たちは「革新官僚」と呼ばれていた。
その代表格の一人が岸信介であり、後に安倍晋三元首相はその孫にあたる。
こうして見ていくと、「革新」的な統制を志向した人物の系譜にある政治家が、現代では「保守」を掲げ、「革新」を否定する姿勢を見せているのは、なんとも歴史の皮肉を感じさせる。

敗戦後、日本経済は護送船団方式に代表される政治の保護政策のもとで立ち直った。
だが、時がたち、民間の力は政治の想定をはるかに超えるまでに成長した。
今や私たちは、世界規模の競争のまっただ中にいる。
それでもなお、政治が旧来の体制を手放せないでいるとすれば、いずれ国際社会の流れから取り残されてしまうだろう。

既得権益を守ることに汲々とするのではなく、政治の目はもっと日本の文化や社会の仕組みに向けられるべきだと思う。
それらは他国に比べて決して劣っているわけではない。むしろ、長い歴史のなかで磨かれ、支え合う力を持っている。

真の「保守」とは、
目先の利権や地位を守ることではなく、
日本の文化や社会構造といった本質的な価値を守り、継承していくことにこそある。