
このブログは私的な備忘録。身の回りのことを書いてきたがふと自分の足跡をたどりたくなることもある。50年前と比べる建築設計を巡る環境は随分変わった。
当時は「公庫代願」という看板を掲げた建築士事務所が町のあちこちにあった。公庫とは言うまでもなく住宅金融公庫のことである。
建築確認申請と住宅金融公庫融資工事が建築士事務所の大きな仕事であった。
つまり建築士としての本来の仕事ではない。代願という事務手続きだけでそこにはデザイン行為はなかった。
一方1970年代になると鹿島出版会から「都市住宅」という雑誌が発刊され一般市民も住宅設計を建築家に依頼されるということがわかり始めた。
ニューハウス、モダンリビング、新しい住宅の設計といった雑誌でも建築家が紹介されるようになった。
東京地方ではいち早く建築家が一般住宅を手掛けるようになったが地方ではまだまだ建築家が設計するようにはならず、ごく限られた存在だった。
勤務時代は企業のオーナーなどの住宅を数件しか経験していないが開業してからは住宅中心の仕事になった。
ここからフルセットでの住宅設計の仕事が始まった。設計図書を公共工事レベルで全て必要な図面を揃え、監理も定期監理を実施するということだ。
設計料も東京並に10%を目指すものの周囲との相場とあまりにも離れていてその克服には20年以上かかった。
クライアントもかならずしもそこまでの内容を求めていなかったかもしれないがこちらで必要と思われることの理解を求め続けた。
なぜそんなことに執着するか。一つにはJIA日本建築家協会の存在がある。必ず自分たちの存在が必要とされる時が来ると信じている。
JIAについては後日詳細に書き込む。
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