生活は生きていく術、手段。暮らしは生きていく目標。と仮定してみる。
同義語のように扱われるが生活が受動的なのに対し、暮らしは能動的な気がする。つまりある意思を持っての行動。
生活は生存していくためのルーチンワーク。

11月11日にJIA住宅部会の市民向けセミナーが東京OZONEであり、講師として参加することになっている。
演題が「暮らしの質を上げる住まいづくり。少々抽象的な演題である。
暮らしとは、暮らしの質とは・・・禅問答のような自問自答が続いたが形にしなくてはならない。

言うまでもなく住宅は暮らしや生活を包む容器である。そこに求められる機能は「安心、安全」がまず基本であろう。住宅という建築が住まいてに作用する力、
ただフィジカルなものだけに作用したとしたらそれは生活を包むだけのもの。

生きる目的に寄り添うには不十分のように思える。住まい手の生き方と共鳴するようなこと。そこに立体空間としての建築設計の存在があるのかもしれない。

現在の住宅は一軒で完結している。それは戦後の個人主義の現れ、またほとんど勤め人として会社中心の生活、または子育て中の学校中心の生活が近隣とのつながりを断ってしまったのかもしれない。結果非常に乾いた街になってしまった。建築の外皮は内、外を仕切る装置にすぎない。
乾いた街を嘆いているだけではダメだ。省エネ思考の住宅は特に閉じこもることを強要している。
暮らしが生きる目的に対しての歩みであるならばもっと外のことに目を向けることができる住宅設計が必要ではないだろうか。

うーん、まだまだ原稿が書き出せない。どんな住宅を設計してきたのか振り返るところから始める。現役最後の講演になるだろうが困った。