日曜日の朝、起工式。雨も上がり午後には生暖かい風が町に流れた。

起工式は一般的には「地鎮祭」という神道に基づく工事の安全祈願を行なう儀式である。
神道、キリスト教、仏教と形式は異なるものの工事の無事を願う気持ちは宗教的な結びつきにつながる。

神道は一般的には神社の神官によってその行事が行なわれるがこの宗教の特徴は極端な多神教ということに尽きるのでは。祖先崇拝という原始宗教の流れとか。時に自然現象まで崇める対象となる。このことを受け入れてきた国民性により寛容な精神が形成されてきたのではと思う。

今日の地鎮祭は3世代の家族の住む住宅である。家族が全員神事に参列し、玉串をささげた。
幼い子供には記憶にとどめることが出来るかどうかわからないが親が子供の手を取って玉串をささげる様は伝統が受け継がれていく思いがして頼もしい。

地鎮祭は生きてること、生かされていることのありがたさをご先祖様に感謝を改めて感じる機会なのではと思う。予見できない沢山のめぐり合い。この不思議さは個人の意思だけではどうにもならない。

お宮参り、七五三は神社。結婚式はキリスト教式。葬儀は仏式と無神論なのか無宗教なのか基本的には神の存在を信じない世相なのだろうか。

昨日は一神教同士の抗争により不幸な事件が起こる。
地球上の富を独占してきた宗教に対し、その信者の数で逆転したもののまだまだ貧しい宗教。
そして富める側の信者も極端な富の偏在により屈折した若者を作り続けている。

いかなる武力の行使も反対だが、「戦争」が国家によって殺人が許可されているのに対し、「紛争」は許可されない殺人の応酬である。ルールがないのだ。
損得でも面子の問題でもなく、憎悪の応酬としたらとにかく際限がないのだ。
その意味でパリも紛争地域のひとつだったといえよう。

欧州、とりわけスペインを始め英仏は一時は世界の過半を植民地とした。
未だ多くに利権を確保している。これらの国々が地球上の秩序を維持してきたが皮肉なことに情報化社会が高性能な武器さえ、簡単に作ることが出来るようになってしまった。かつて銃器で原住民を圧迫して植民地を作ってきたことの逆も可能となった。
日本はどのような選択が求められているのだろうか。