最近、インターネットオークションで古い写真撮影用レンズを手に入れた。
動作に難があるので修理に出したがすでに部品が消耗しきっていて部品交換以外手がないという回答であった。
自分のも40年以上前のものだがちゃんと動く。ちょっと残念というところだが古いものなのでいかしかたない。
一方、完全にすり減るまで使われたということは使い方に問題があったにせよ、幸福なことではないだろうか。

今、自動車が動くのに古くなると税金が上がってしまう悪法がある。どうみても新車を買わせたい自動車メーカーの思惑が見え隠れする。
新車を作るために発生する環境負荷と乗り続けることによって発生する環境負荷は実証されていない。
仕事で使っている車は10年乗って220,000km走行してもまったく元気だ。

ろくに使われていなくても簡単に廃棄されてしもうものが多すぎないだろうか。
自分自身も多分脳細胞をろくに使わない生活をしてきたし、体に至っては疲れると体に良くないと思う方だからまだまだ耐用年数が残っている。

オートフォーカスになってカメラは手軽に扱えるようになった。更に手ぶれ防止などもつくようになった。
トドメは撮像素子がデジタルになったことだ。フィルム代、現像代を気にすることなくシャッターが切れる。

結果撮影対象を注視することも少なくなった。
古いレンズをデジタル機に接続してカメラ遊びを再開した。
露出以外はすべて手動である。
遊びであるから合焦から構図、被写界深度の選択、すべてジックリとやる。
もっともすべて自動で撮ったほうがきれいな場合が多いからかなわない。
プリントが待ち遠しい思いも味わう。

レコード針も針先こそ交換するが30年前のものがきちんと働いてくれる。
やはり40年前のJBLはコーン紙のエッジを2回張り替えながら思い出という時間を伴って鳴ってくれる。

さすがにロードバイクだけは最新型のほうが良い。だが古いデローザにすれ違うとやはり見とれてしまう。

最近やや後ろ向きの自分だがこれからの行末を少し自分軌跡を振り替えつつゆっくりと考えようと思う。