
朝涼しくなって、寝坊。枕元に自転車装束一式を出しておいたのだが無駄になる。
午後気をとりなして群馬県近代美術館に「建築家 白井晟一 精神と空間」を見に行く。
若いころたむろしていた煥乎堂の設計者でもある。
白井晟一の展覧会はまず力強い墨書の作品群に圧倒される。怠惰なわが身が情けない。
この作家の建築は軽い膜の様な壁の建築がもてはやされている昨今の建築とはだいぶ気配が違う。
ラテン語の文字が入った装飾があるかと思うと石積みの壁がある。
一方住宅作品においては伝統的な日本建築の様式を主体とした作品がある。
若い日ドイツに学んだ経験からか西洋と東洋の位置関係を念頭に入れた思考と思われる。
コンドル仕込みの辰野金吾の世代はもっぱら西洋様式建築のコピーから脱することが出来なかった。
分離派の洗礼を受けた世代はやはりヨーロッパの当時の最新の様式のコピーに終始する。
皮肉なことに敗戦後活躍した作家のほうが日本建築に向き合っている。といっての自分の祖父に当たる世代の人達ではある。
今ヨーロッパででは日本の建築が注目を浴びているという。
重い組積造の壁体から解放されたガラスと細い柱で出来た建築は異文化として映るのか。しかしガラス一枚とはいえ内部と外部の空気は明確に遮断されていて日本建築の持つ内外部空間の連続性はない。結果日本では空調費用などのつけが回ってきて後が大変という体育館などもあるらしい。
結局工業製品の使用を前提としていて建築が本来最小限の努力で雨露を防ぐための工夫であったこととも異なる。
自分が携わる住宅の設計では無駄な費用を使うことは許されない。
窮屈といえば大変窮屈であるが自然な姿ともいえる。
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