原文
山に入るとヤマユリの最盛期。カサブランカの親でもある日本原産の大きなユリ。とにかく夏の花らしく派手。
休日、暑いとはいえ涼を求め山地に入る。
里では予想されていたとはいえ参政党の伸長。
百姓一揆のようなものだ。アマチュアの集団が思いつくうっぷんをまき散らしての一揆。
御代官様たちのていたらくは目を覆うばかり。
政治家とは言えないまでもプロの政治屋であった集団の有様はようやく地縁、血縁をベースにした江戸時代からの集団行動の終焉を表しているのかもしれない。
国際社会に目を向ければ理性より弱肉強食がまかり通るいやな環境になった。反社会勢力と対峙するかのような緊張感に置かれた日本のかじ取りは政党の足の引っ張り合いに割いている時間はない。
謙譲を美徳とした精神性が国際ルールの基本となること願うばかり。
AIによるリライト例
山間にヤマユリを見て、国の行く末を思ふ
山路に分け入るとき、折しもヤマユリの盛りなりき。
白妙の花弁に紅の斑点、香気は高く、いかにも夏の花らしき華やかさを湛へたり。
この花こそ、洋花カサブランカの祖とも伝はる我が国原産の大輪なり。
酷暑の折なれど、涼を求めて山地に身を置けば、清風肌を撫で、都塵の喧騒しばし忘れしは束の間、ふと脳裏をよぎるは、下界の騒動なり。
即ち、参政党の得票の伸長、今次の選挙における予想通りの現象にして、もはや一種の民衆一揆とも申すべきか。
素人の集ひとは言へど、うっぷんを晴らすが如く声を挙げし民意の奔流、いかに既成の体制が信を失ひたりしかを物語る。
然れども、より嘆かわしきは、久しく「政治屋」と呼ばれし者どもの腐敗と倦怠なり。
政(まつりごと)を忘れ、利権と保身に明け暮れ、地縁・血縁の網に頼りて生き延びたる姿は、まさしく江戸の旧弊を現代に引きずれるものと見ゆ。
その終焉の兆しや、今回の結果にあらはれたり。
また国際の情勢を顧みれば、理性よりも力が支配する、まことに憂ふべき時代となれり。
反社会の勢力の如き国家が、理非を顧みずして覇を唱ふる現世において、わが国の舵取りは一層の緊張を強いられん。
されど、内に目を転ずれば、政党間の反目と牽制に時を費やし、進むべき道を見失へり。実に嘆ずべきことなり。
願はくは、かの「謙譲の美徳」にこそ、国際社会の規範の礎と成らしめたきもの。
小利に惑はされず、誠を尽くし、調和を重んずる日本の精神こそ、いま再び光を放つべき時にあらずや。
山の静寂に身を委ね、ヤマユリの高貴なる姿を仰ぎ見るとき、かかる思ひ、心に浮かびて離れざりき。
ヤマユリ咲く山で、日本の行方を考える
山に入ると、ヤマユリがちょうど見ごろを迎えていた。
白く大きな花弁に赤い斑点をまとうその姿は、いかにも夏の花らしく華やかで、どこか凛としている。
このヤマユリは、日本原産のユリであり、洋花カサブランカの母ともいわれる存在である。
連日の酷暑を避け、涼を求めて山中に身を置いていたが、ふと里の出来事が頭をよぎった。
先日行われた選挙において、参政党が票を伸ばしたことは、ある程度予想されたとはいえ、やはり衝撃である。
それは、現代の百姓一揆のようにも思える。
政治の周縁に追いやられてきた人々が、不満と怒りを一挙にぶつけた結果であり、既存の政治への信頼がいかに薄れているかを物語っている。
しかし、もっと深刻なのは、かつて“プロの政治屋”として長らえてきた人々の姿である。
理念を語らず、政策よりも派閥や利権を優先し、地縁や血縁に依存して当選を繰り返す彼らの姿は、もはや時代遅れでしかない。
そのような古い政治構造が、ようやく崩れ始めているようにも見える。
一方、世界に目を向ければ、理性よりも力が支配する時代に逆戻りしたような空気が広がっている。
反社会的勢力さながらの振る舞いをする国家もあり、そうした中で日本の進路は、極めて難しい局面に立たされている。
政党間の足の引っ張り合いに時間を浪費している余裕は、もはやない。
今こそ、日本が育んできた「謙譲」「誠実」「調和」の精神が、世界のルールの基盤として見直されるべきではないか。
それは理想論にすぎるだろうか。
しかし、そうした精神性を放棄すれば、日本は日本でなくなる。
ヤマユリの香りに包まれた静かな山道で、そんなことを改めて考えさせられた。
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