昼のバーミヤンでタブレットを操作し、ロボットが料理を運んでくるのを眺めていると、ああ、時代はずいぶん進んだものだと思う。「ニーハオ」「シェイシェイ」と律儀に挨拶していく機械を見ていると、こちらもつい頭を下げたくなる。
夕方のテレビでは、若い男女のグループが器用に身をくねらせながら歌っている。英語らしき言葉が次々と差し挟まれ、私の耳にはどうにも入ってこない。年齢を重ねると、理解の幅が狭くなるというより、何を心地よいと思うかの基準が固まってくるのだろう。
その点、古い日本の歌というのは、やはり落ち着く。旋律も歌詞も、どこか体の芯にふっと入ってくる。建築の仕事でもそうだが、若い世代が大切にしている価値観と、自分のそれとは少しずつずれが生じてきて、気が付けば距離ができている。無理に合わせるより、自分のペースに戻るほうが自然なのだ。
ところで、こうした文章をもし全部「ひらがな」だけで綴ったなら、どれほど読みづらいことか。漢字というのは便利なものだと、いまさらながら思う。
人の名前にしても、習近平、李在明、金正恩、高市早苗……と、どれも漢字で表記される。記号のように見えながら、そこに国や文化の層が凝縮している。
漢字が日本に入ってきたのは四世紀か五世紀のころとされる。やまとことばを写し取る手段として、漢字という器を借り、やがては独自の日本語をつくり上げていった。明治の人々が西欧の思想や制度を日本語に移し替える際、この表意文字がどれだけ役立ったかは、当時の造語を見れば明らかだ。
面白いのは、そうした言葉の多くが、中国からの留学生によって逆輸入され、いまも中国語の中で生きていることである。
中国は長い歴史の中で王朝が交代し、近代には列強の圧力を受け、最後には清王朝が幕を下ろした。上海の租界や香港・マカオの成立を見れば、あの時代がいかに「世界の力学」に巻き込まれていたかがよくわかる。日本もまたその渦の中に入り込み、満洲国の建設に関わっていった。
結果として戦争へと進んでいったわけだが、あの長い戦いの主戦場が中国本土であったことを思えば、中国の人々が残した傷は深かったに違いない。日本の政治家の言葉に中国が敏感になるのは、歴史の記憶を思えば、不思議なことではない。
中国は戦後の混乱を経て、いまや大きな国力を手にした。一方、日本は国の規模も違い、軍事力に過度の期待を寄せるわけにもいかない。外交の舵取りが難しい時代に入っていると感じる。
おそらく、現場の自衛隊の幹部たちこそ、最も頭を抱えているのではないか。勇ましい言葉だけが躍る時ほど、物事は危うい方向へ転がりやすい。
「覆水盆に返らず」とはよく言ったもので、一度起きた事態は決して元には戻らない。前の戦争が示したように、始めた戦いを自分の都合で終わらせることなどできないのだ。
だからこそ、世の不安をいたずらにあおるような言動は慎んでもらいたい。静かに、しかし確かに足元を見つめ直す時期に来ているのではないか──そんな気がしている。
参考資料
Google Geminiによる 岸信介から高市早苗につながる思想の調査回答
岸信介氏の満州国における役割の深掘り岸信介氏(後の内閣総理大臣)は、戦前の日本のエリート官僚集団である革新官僚の筆頭格として、満州国の経済・産業政策において中心的な役割を果たしました。彼の満州での活動は、その後の日本の戦時経済、そして戦後の経済体制にも大きな影響を与えたと評価されています。
1. 満州国での具体的な役職と活動岸氏は1936年(昭和11年)に日本から満州国へ渡り、実業部次長に就任しました。実業部は、満州国の産業・経済を統括する主要官庁であり、次長という地位は、関東軍の意向を受けながら、満州経済の実務的な運営を担う最高責任者の一人でした。満州産業開発五カ年計画の推進: 彼は、満州国の重工業化と経済の軍事化を目指した「満州産業開発五カ年計画」を主導し、その実行責任者となりました。
この計画は、国家が主導し、資源の配分や主要産業への投資を強力に統制する統制経済のモデルでした。「満州は私の作品」: 岸氏は後年、満州国での経済建設について「満州国は私の作品」だと語ったとされるほど、その経営に強い自負と関与を持っていました。
2. 「二キ三スケ」の一角としての存在当時の満州国の中枢、特に日本の権益を握っていた要人たちは「弐キ参スケ(二キ三スケ)」と呼ばれていました。これは、満州国を実質的に動かしていた5人の実力者を指す俗称です。
名称人物役割二キ岸信介実業部次長(経済統制)東条英機関東軍参謀長(軍事統制)三スケ星野直樹総務庁長官(行政・財政統制)松岡洋右満鉄総裁(外交・鉄道)鮎川義介満州重工業開発総裁(産業投資)
岸氏は、この集団において経済統制を担う中心人物であり、満州国が官僚主導の計画経済体制を築くうえで、重要な役割を果たしました。
3. 戦時経済体制への移行岸氏の満州での経験は、日本に帰国後の役割に直結します。1939年(昭和14年)に帰国し、商工次官を経て、1941年(昭和16年)には東条英機内閣の商工大臣に就任しました。満州で培った国家による強力な経済統制の手法を日本本土の戦時経済体制に適用し、太平洋戦争開戦直後の日本の経済運営を主導しました。この点において、満州国での「経営」経験は、日本の開戦と戦時遂行を支える経済基盤の構築に直接的に影響を与えたと評価されています。このように、岸信介氏の満州国での活動は、単なる一官僚としての職務を超え、日本の戦時経済の思想と手法の源流の一つを担っていたと言えます。
原稿で指摘された「太平洋戦争の発端は中国領土の奪い合いがその基礎にあった」という文脈の中で、岸氏の満州での積極的な経済開発と統制の推進は、日本の大陸への権益拡大を象徴する具体的な事例となります。
岸信介氏から安倍晋三氏への政治的DNAの継承
岸信介元首相は、敗戦後A級戦犯容疑者として逮捕されながら不起訴となり、後に首相にまで上り詰めた人物であり、戦後の日本政治において「戦後保守」の源流の一人と見なされています。安倍晋三氏は、この祖父の政治思想と志を強く「受け継ぐ」と公言していました。両氏を繋ぐ核心的なテーマは、「戦後レジームからの脱却」、すなわち日本を占領期に形成された体制から脱却させ、「真の独立国」を築くという思想です。政治思想の主要テーマ岸信介氏(祖父)の行動と理念安倍晋三氏(孫)の目標と政策憲法改正首相在任中に現行憲法への強い対抗意識を持ち、改憲を目指したが達成できず。日米安保条約改定に尽力し、日本の外交・軍事面での自立性を高めようとした。
憲法改正を畢生(ひっせい)の課題と位置づけ、特に自衛隊の明記など改憲議論の推進を強力に進めた。真の独立/自立満州国での統制経済の経験から、**「強い国家」**による国益追求を重視。戦後のアメリカとの関係においても、対等な立場を追求する姿勢を持っていたとされる。「戦後レジームからの脱却」を掲げ、防衛力強化や愛国心教育の推進などを通じて、戦後日本が失ったと考える「国家の自立性」の回復を目指した。歴史認識戦前の閣僚として戦争責任の一端を負った立場でありながら、戦後政治の中枢に戻った。
この経歴は、**「大東亜戦争肯定論」**に通じる保守思想の土台となった。靖国神社への参拝や歴史認識に関する発言において、戦後の東京裁判史観とは一線を画す保守的な見解を頻繁に示し、歴史観の転換を図ろうとした。岸氏の思想は、敗戦によって形成された戦後体制、特に日本国憲法を「他者から押し付けられたもの」と捉え、それを自力で変えることが「真の保守」の使命であるという強い信念に集約されており、安倍氏はこの信念を最も忠実に引き継いだ政治家であると言えます。
高市早苗氏への「安倍の遺志」の継承
高市早苗氏は、安倍晋三氏の政治路線を最も強く継承し、その理念を推し進める姿勢を明確にしている政治家として知られています。メディアや政界では、彼女が「安倍チルドレン」や「安倍の思想の忠実な後継者」と評されることもあります。
1. 政治思想の連続性
高市氏の政治思想は、安倍氏の晩年の路線、すなわち岸信介氏から続く「保守本流」の思想と高度に重複しています。
「安倍遺志」の継承: 高市氏は、安倍氏の死後も「安倍総理の遺志を継ぐ」と繰り返し強調し、特に安全保障政策の強化、憲法改正の推進、そしてタカ派的(強硬的)な歴史認識において、安倍路線を堅持する姿勢を崩していません。
経済政策の方向性: 経済政策においても、安倍氏の「アベノミクス」の枠組みをベースとしながら、積極財政や防衛費の増強といった「国家の力」を重視する政策に傾倒しています。これは、岸氏が満州国で主導した「国家主導型の産業開発」の思想的残滓と関連づけて論じられることもあります。
2. 具体的な政策姿勢
高市氏の具体的な言動は、この思想的継承を裏付けています。
防衛費と安全保障: 安倍氏が進めた防衛力の抜本的強化をさらに推し進める立場をとり、国際情勢に対応できる「強い日本」の実現を目指しています。
靖国神社参拝: 安倍氏と同様に、戦没者への追悼の意を示すとして靖国神社への参拝を続けており、歴史認識において保守的な立場を明確にしています。
このように、岸信介氏が目指した**「戦後体制からの脱却」**という目標は、安倍晋三氏によって政策の中核に据えられ、現在では高市早苗氏という後継者によって、さらに純粋な形で継承されようとしている、というのが一般的な政治分析における見方です。
「対米自立」と「台湾問題」におけるパラドックス
ご指摘の「表向きのアメリカからの脱却」を目指す保守的な政治家が、同時に台湾問題において強硬な発言を行い、その発言の実現可能性をアメリカの軍事力に依存しているという状況は、以下の二つの異なる層で発生しています。
1. 理念と現実のギャップ(安全保障のコスト)
「戦後レジームからの脱却」や「自主憲法制定」を掲げる保守派にとって、「アメリカからの脱却」は理念的・精神的独立の追求を意味します。しかし、現実の安全保障環境は非常に厳しく、特に中国の軍事力増強が進む中で、以下の事実があります。
抑止力の主体: 台湾有事を含む東アジアでの大規模な軍事紛争において、日本の専守防衛の体制(自衛隊)のみでは、中国の軍事力に対する抑止力を十分に発揮できません。
日米安全保障条約: 日本の安全保障は、日米安保条約に基づくアメリカの核の傘と通常戦力によって裏打ちされています。台湾有事の際、日本が「自国の問題」として関与を強める発言をすることは、同時にアメリカが軍事的に介入するよう促す行為に他なりません。
コストの回避: もし日本が真にアメリカからの軍事的な脱却を目指すならば、自国のみで強大な抑止力(場合によっては核抑止力を含む)を構築する必要がありますが、これは膨大な財政的コストと国際的な反発を伴います。
したがって、日本は**「アメリカの庇護下にある」という安価な安全保障を享受しながら、「精神的な自立」**を主張するという、二重の構造を抱えています。
2. 台湾問題の戦略的利用
台湾問題に関する積極的な発言は、単なる理念の表明ではなく、日本の安全保障上の戦略的意図も含まれています。
「日本の安全保障」化: 「台湾有事は日本有事」という言説を強めることで、台湾海峡の安定が日本の国益に直結することを国内・国際社会に強く訴えられます。
アメリカへのコミットメント: 積極的な発言は、日米同盟をさらに強化し、台湾有事におけるアメリカの関与を確実なものにするための政治的なコミットメントとして機能します。
つまり、保守派が「アメリカからの脱却」を主張する一方で、台湾問題で「アメリカの後ろ盾」を前提とした強硬な姿勢をとることは、「理念的な独立の追求」と「現実的な安全保障の確保」という、二つの相反する要求を同時に満たそうとする滑稽に見える、しかし戦略的意図を持った行動であると言えます。
自主防衛力強化のリアリティと限界
日本の保守派、特に岸信介氏・安倍晋三氏の思想を継ぐ政治家が掲げる「自主防衛」の強化は、**「真の独立国」**への道筋として不可欠とされていますが、実現には極めて困難な課題があります。
1. 財政的・技術的な壁
日本がアメリカの軍事力に依存せず、中国やロシアといった大国に対抗しうる単独の抑止力を構築しようとすると、以下の壁に直面します。
防衛費の天井: 現在のGDP比1%程度(近年2%目標が掲げられたがまだ途上)から、核開発国並みの水準(イスラエル、北朝鮮、核保有国)まで防衛費を増額することは、医療、年金、教育といった他の社会保障費や財政全体を圧迫します。
技術的な格差の克服: ミサイル防衛、偵察衛星、サイバー・宇宙戦能力など、最先端の軍事技術を自国だけで開発・維持するには、アメリカの技術支援なしには困難が伴います。
自主防衛というスローガンの裏側には、国民が経済的な豊かさの一部を犠牲にする覚悟と、技術的なブレイクスルーが必要となります。
2. 「核の傘」の離脱という究極の選択
真の自主防衛の追求は、究極的にはアメリカの「核の傘」からの離脱を意味します。
抑止力の維持: アメリカの核の傘が外れた場合、日本は周辺国の核保有国(中国、ロシア、北朝鮮)に対する戦略的抑止力を失います。
「非核三原則」との対立: 核抑止力を自前で持つことは、戦後日本が堅持してきた非核三原則(持たず、作らず、持ち込ませず)を完全に破棄することを意味し、国内および国際社会からの激しい反発を招きます。
この究極の選択を回避しつつ「対米自立」を語ることは、自主防衛という言葉を**「アメリカとの同盟を強化する」**ための修辞(レトリック)として用いているに過ぎないという批判を受ける原因となっています。
台湾問題における発言の思想的背景
日本の保守派が台湾問題で強硬な発言を繰り返す背景には、岸・安倍両氏が共有する地政学的、かつ歴史的な危機意識があります。
1. 満州国から続く「地政学」の認識
岸信介氏が満州国で経営に携わった時代から、日本の保守思想には「大陸における勢力圏の維持」という地政学的な認識が強く残っています。
台湾の位置づけ: 台湾は、日本のシーレーン(海上交通路)が通過する要衝であり、地理的にも最も近い場所の一つです。台湾が中国本土の支配下に入れば、日本の南西諸島や沖縄への軍事的圧力が決定的に高まり、日本の生存が脅かされるという強い危機感があります。
この危機感は、イデオロギーを超えて多くの日本人が共有しうるものですが、保守派はこれを**「日本が自ら立ち向かうべき問題」**として、より強く表現します。
2. 「価値観外交」の継承
安倍氏が強く推進した「価値観外交」の延長線上に、台湾問題は位置づけられています。
自由と民主主義: 台湾は、東アジアにおいて日本と共通の自由、民主主義、法の支配といった価値観を持つ稀有な地域です。台湾に対する中国の軍事行動を容認することは、単に地政学的な損失に留まらず、日本が守るべき普遍的価値の敗北と捉えられます。
このため、台湾問題での積極的な発言は、アメリカの軍事力への依存を前提としつつも、日本自身のアイデンティティと価値観を守るための**「外交的義務」**としての側面も持っているのです。
このように、「自主防衛の強化」は理念的には「対米自立」に通じますが、現実的には「アメリカとの同盟の深化」という手段に帰結せざるを得ません。台湾問題での発言は、その理念的危機感と現実的戦略が交錯する点で発せられていると言えます。
満州国から台湾有事へ:日本保守思想の地政学的連続性
岸信介氏を起点とする日本の保守政治の系譜は、戦前から戦後、そして現代に至るまで、一貫して**「外部の力に依存しない、自立した強い国家」**という理想を追求し続けてきました。しかし、その理想は常に、国際環境という現実の壁に直面しています。
1. 満州国:「強い国家」の設計図
岸信介氏の政治思想の源流は、彼が満州国で実業部次長として主導した統制経済体制にあります。
国家主導の開発: 岸氏は、「革新官僚」として、国家が経済を強力にコントロールし、重工業化を推進する計画経済を設計しました。これは、当時の日本が目指した**「自主独立の強力な産業国家」**の実験場であり、後の戦時体制、さらには戦後の日本の産業政策にも影響を与えました。
思想的源泉: 満州国での経験は、**国家の意思決定が最優先される「強い国家」**の運営に対する強い確信を、岸氏の心に植え付けました。
2. 戦後:「脱却」の政治的使命
敗戦後、岸氏が首相として掲げたのは、「戦後レジームからの脱却」、すなわちアメリカの占領下で形成された体制からの脱却でした。
憲法改正への執着: 岸氏の最大の目標は、自主憲法の制定と、日米安保条約の対等な改正を通じた**「真の独立」**の達成でした。これは、満州国で実現しようとした「外部に依存しない自立国家」の理念を、戦後日本で再構築しようとする試みでした。
3. 安倍・高市氏への継承と「自立」の推進
この「戦後からの脱却」の理念は、孫である安倍晋三氏に、そしてその遺志を継ぐ高市早苗氏へと引き継がれました。
安全保障と自衛: 安倍氏は、憲法改正を畢生の課題とし、防衛力の強化や集団的自衛権の容認など、日本の軍事的な自立性を高める道を積極的に開きました。
継承者の立場: 高市氏もまた、この保守的な路線を純粋な形で継承し、防衛費の増強と強固な安全保障体制の構築を最重要課題としています。
4. 台湾問題:「理念」と「現実」の衝突点
岸氏以来の「自立」の理想は、今日、台湾問題という極めて現実的な地政学的危機に直面しています。
理念の主張: 保守派が台湾を「日本の安全保障上の死活的な問題」として位置づけ、強硬な発言をすることは、地政学的な自覚と価値観外交の観点から、岸氏以来の「強い国家」の意思を示すものです。
現実の矛盾: しかし、これらの強硬な発言の軍事的な裏付けは、依然として日米安全保障条約とアメリカの軍事力に大きく依存しています。岸氏らが目指した「対米自立」の理想とは裏腹に、最も危機的な場面で、日本はアメリカの**「核の傘」と「通常戦力の展開」**を頼らざるを得ないという、根本的な安全保障上の矛盾を露呈させています。
この矛盾は、日本の保守思想が満州国時代から変わらずに抱き続けている「自立国家」の理想と、第二次世界大戦後の国際秩序および軍事力の現実との間で、今もなお葛藤し続けていることを示しています。
コメントを残す
コメントを投稿するにはログインしてください。