京都の杉本家、高山の吉島家等、日本の古い建築を訪ねる旅を計画。両親の介護・支援や感染症対策もあり3年間、家を空けることは難しかったが新型コロナ規制が解除される前の落ち着いた時期を選んで実行した。とはいえ強行軍、早朝前橋を出て新幹線を乗り継ぎ京都へ。すでにたくさんの観光客が往来している。

杉本家は寺社などとは違って京都の普通な生活環境の中にたたずんでいる。修理の真っ最中ということで見学できるか場所は限られていたが本格的な洗練された京町家の素晴らしさを体験。歴史と文化と表裏一体の造形が現代の雑多な空間とは一線を引くものだということも実感。

古建築ではないは鉄筋コンクリートの大規模な工場も見学。というのはこじつけで「鉄ちゃんの聖地」京都鉄道博物館はもともと梅小路機関区の扇型機関車庫で収容された動・静態保存SLが並ぶ姿は壮観である。それぞれ250万Km近く走破した記録を持つ強者。銘板にはそれぞれ活躍した線区が表示され、歴史と時間を感じさせてくれる。静かに黒光りする巨体を横たえていた。

民藝運動の中心人物のひとりであった河井寛次郎記念館は狭い道路に面した東山の裾にある。民藝と古建築もまた切り離せないものだが、翌日「飛騨の里」を訪ねた見た空間とは北王子魯山人の指摘にもあるように本当の庶民の暮らしとはまた少し違った視点のようにもやはり思えた。

京阪電車と叡電を乗り継ぎ「進々堂」で一休み。黒田辰秋の大テーブルはきれいに手入れされていた。

列車遅延の情報がネットに上がっていたので名古屋駅での乗り継ぎを確認のため京都駅に戻ったが心配はないとのことだったので少し時間をつぶす。本当は鴨川に面した東華飯店か菊水あたりでで食事をしたかったのだが。

高山への特急「ひだ号」はキハ85系からHC85系に機種変換目前で乗れたことが運が良かったのか新型HC85系に乗れなかったのが残念だったのか微妙だが鉄っちゃんが惜別の思い出撮影している姿が見られた。

高山には23時近くに到着、そのまま宿泊所に直行。新しいホテルだがフロントのそっけない接客態度でがっかり。フロントの照明が暗く宿泊カードに記入しようとしても字が見えない。老眼を憂うが明かるところを探してそっちへ行って書けと言われる。えっという感じ。ホテルとホスピタリティと関連はないのか。興ざめの高山の夜。もちろん外出せず。施設内容が良いだけにちぐはぐ感がぬぐえず。

翌朝は気を取り直して7時には伝建群地区に散歩。さすが観光客は起きてこない。ひとりのイタリアから来た青年と会う。日本の建築ファンだということ。人気がないこの時間が最高と一社に歩きながら、つまり撮影に邪魔にならないポジションを取りながら歩く。片言の英語でも気持ちが通じるから不思議。

宮川沿いの朝市もみせうぃ組み立て始めたところ。初めて50年前来たときにいた猿のミイラを飾っていた店のおばちゃんどうしただろう。

コーヒーDONでモーニング(定食)ショパンが静かに流れていて妙に哀愁がある。

吉島家を訪ねるのは4回目。今回も前3回で見落としていたことを発見。建具の細工の細かさや空間の広さ、等々。係の人に吉島休兵衛忠男さんのスタッフの方をご紹介いただく。様々なお話をさせていただき、これだけの建築の中で育ちまた守っていくご苦労をお聞かせいただいた。

日下部民芸館も隣り合わせながら全く違う表情であり対比が興味深かった。巨大な雛飾りが展示されていて民芸館らしい室礼であった。

昼食は土産物店で紹介していただいた「京屋」で在郷料理定食をいただく。飛騨地方の郷土料理である。やや塩分が濃い目なところは寒い地方ならではであろう。

杉久呉服店の茶房布久庵で一休み。中庭を囲むような客席でちょっと居眠り。

「飛騨の里」まで足を延ばす。屋根が少し傷んできているのが気になるが飛騨地方の各地から集められた民家を一度に見られる野外博物館である。今回はじっくり見て歩くことができた。やはり見学旅行は一人旅がよさそうだ。

高山陣屋は初めて訪れる。江戸期の大事規模な事務所建築。味気ないがやはり権力の執行機関。お堅い感じが商家とは一線を画すものがある。そう、3.11は東日本大震災の日。黙とうする。

さていよいよ帰ろうと高山駅に戻ったら特急「ひだ13号」延着のアナウンス。今度はこっちかいと富山駅での乗り継ぎが不安になるが単線区間のローカル線、じたばたしてのしょうがない。結局24分遅れで出発。4分の回復運転で事なきを得た。おかげで残雪の残る神通川沿いの線路を爆走するキハ85系の雄たけびを聞くことができた。結局金沢方面行「はくたか」は待ち合わせで停車していたものの東京方面行「はくたか」は予定通り出発。高崎に着いたら今度は高崎線が遅延。定時運行が自慢だったJRにも困ったものだ。

と、二日間の小旅行の備忘録。