阪神・淡路大震災から28年、記憶が風化していく。
阪神淡路大震災の起きた日を思い起こし、自らの存在の小ささを謙虚に受け入れよう。
記憶が薄れていくので過去のブログ記事「備忘録」を振り返る。
兵庫県南部地震
2018年01月17日 | 建 築
今日は兵庫県南部地震による阪神・淡路大震災の有った日。あの日の朝TVの画像を現実感無く呆然と見つめた。何が起きているのかさっぱりわからない。TV映像の威力をまざまざと感じてもいた。
人間の尊厳に関わることもふくめ赤裸々に映し出す。
少し落ち着いてきた3月にJIAとして生活再建のための支援の一環として相談業務に群馬在住の会員の一人として現地に向かった。京都駅前のホテルに前泊し、住吉までしか開通していない神戸線で現地入り。近づくに従って民家の屋根がブルーシートで包まれている。駅前には仮設WCがならび街に入ると消毒薬の匂いと静寂が出迎えてくれた。生活雑音のない街はこんなにも静かなのか。幹線道路の自動車騒音と破砕作業の騒音だけが響く。
火災も有り焼け野原もあれば壁が圧壊し屋根が地上に横たわる家、大きなマンションの1階が圧壊して、上部がそのまま乗っているものなど、見てはいけないものだらけの光景が広がっていた。その後Eディフェンスの見学などで神戸を訪れたがあっという間に復旧していった。この辺は東北地方との経済力の差を見せつけられるところである。
構造計算の基準は人間が勝手に決めたしきい値である。自然界は気まぐれだ。せめてこの基準くらいは守らなくてはならないだろう。今の基準は供給側の都合で恣意的に下げられてはいないだろうか。いまだ構造計算を経ずに木造住宅が建てられている。とうとう犠牲者の残された教訓を真摯に受け止めなくてはならないだろう。
兵庫県南部地震
2017年01月17日 | 建 築
研修会のため上京。やはり東京は温かい。1月17日は建築に関わる者にとって極めて重要な日である。前橋という地方都市とは全く違う様相の大手町。但し想像を超えた大地震が起きたとき、何がおこるのだろう。
22年前、震災後の神戸市東灘区の魚崎を中心にJIAの住民支援活動に参加した。その時見聞きしたことはまさに想像を絶するものだった。木造住宅を多く手がける立場として看破出来ないことばかり。その後の設計内容に大きな影響を与えた。
在来軸組工法は一見伝統的な構造のように見えて実際は変形限界を小さく抑えこむ工法であり、接点破壊を防ぐために補強金物が頼りなのだ。更に個室化が進んが現代の住宅では壁量の偏在が著しく、水平剛性の確保が課題になっている。伝統工法では層間変形角を大きく取り要は倒壊しなければ良い、曲がったら元に戻すという柔軟な思考だが、高気密高断熱の現代の住宅には不向きであるのはやむを得ないところ。昭和56年以前の住宅はこの辺が頭の切り替えだできていなくて、補強金物と水平剛性の不足が不安定要素だ。熊本地震でも近年の改善が有効であったことが報告されている。
既存家屋の耐震化が話題になる。この場合構造補強は基礎から改修が必要となる。前橋市街地のうち旧利根川右岸の前橋台地上は火山性堆積物が20mに渡って重層しており、杭打ち地業が必要になることも少なくない。
古い住宅の構造補強を杭打地業をしてそれに見合った基礎を作り直して筋交いで水平力の耐震化、床を補強して水平剛性を改善となるとほとんど床、壁、天井をバラバラにする覚悟がいる。糸魚川市の大火災に見るように密集地では一件でも出火すると大惨事となる。地震は火災を伴う。古い家屋は経済的に余裕のない老人世帯であることが多い。市街地では防火帯をふくめ抜本的な対策が必要ではと当時を思い出す。
兵庫県南部地震
2016年01月17日 | 建 築
口にしても書けない文字「反芻」今日は21年前に「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」が発生した日。天災ではあるが多くの人災も引き起こした。建築に関わるものの責任も多かった。
あの朝の鮮烈な記憶も時間経過とともに薄れてしまう。やはり反芻して記憶の風化を食い止めなくてはならないと思う。自然の力の前の無力さ、ただし手をこまねいてばかりいられない。やはり大破しても人の生命だけは守れるような設計手法を身につけたい。
兵庫県南部地震から20年。
2015年01月17日 | 建 築
あの地震からもう20年、早いものだ。振り返ってみると自分の建築人生の中間くらいに位置する。JIA会員として被災者への「建築相談」のため群馬の会員とともに平成7年2月11日、前橋を出発。被害が少なかった京都駅前のホテルに投宿。翌12日JR神戸線の電車で住吉まで進む。すでに途中は損傷を受けた家屋が並びいよいよ現実のものとなった。
「建築相談」は被災度判定の済んだ住宅のこれからの住み方について相談を受けるという業務だ。ボランティアである。被災度判定により概ねの判断はできるが注視すると致命的な被害を受けているものも有り、また仕上げが脱落して構造体へのダメージは小さいものも有りといった具合で、それぞれ住人に本当のことを伝えるが辛かった。魚崎南町という海に近い地区を巡回した。焼失は免れたものの大きな被害を受けている商店街。跡形なく焼け跡となっている商店街。解体作業の音こそ聞こえるが生活のない町は不気味に静まり返っていたのが印象的だ。消毒薬の匂いが鼻を突く。東灘区役所も電力は復旧したものの水道はまだ開通しておらず水洗便所の使用もままならない。近くの川までバケツを持って水を汲み汚物を流すという初めての体験もした。
建築の壊れ方はまさに教科書通り、そして木造建築の補強金物の重要性、筋違の危険性などその後の設計に大いに影響を受けた。特に水平剛性の大切さは従来の壁量計算では評価できないことなどからその後木造建築でも許容応力度法による構造計算の手法の採用につながった。自然の力の前には人間といえどもあまりにも非力。このことを軽視し、思い上がりが東北地方太平洋沖地震による福島第一原発の損傷事故を引き起こした。多くの犠牲者の方々にはただご冥福を祈ることしか出来ないが、仕事として生命の安全を託されていることを今日改めて思い起こした。
忘れやすいこと。
2014年01月17日 | 建 築
19年前の今日は朝からTVに釘付けだった。信じられないような地震の被害による光景。少し遅れて3月にまだ住吉までしか走らない電車に乗り長田地区の被災者支援活動に参加。人気のない街は無音で遠くの幹線道路から自動車の騒音と解体作業を急ぐ破砕機の音だけが聞こえる。普段の生活の暗騒音が消え消毒薬が鼻につく街角。ずらりと並んだ駅前の公衆トイレ。初めて目にする光景だった。あれから大きな地震が3回。東北地方太平洋沖地震は地理的にも近く、かつ原発から放出された汚染物質が群馬の山野にも降り注ぎ、生々しい現実のものとなった。
神戸はその後何回か訪れたが今では地震の痕跡を探すほうが難しいであろう。関西地区の経済活動の中心部だけに新たな投資も行われたものと考えられる。一方、東北の回復は遅々としてはかどらないようだ。常磐線、常磐自動車道に至っては全線開通は原発の影響で絶望的である。またにわかに首都圏の建設需要が高まり、労働力もそちらに引き寄せられていることが指摘されている。大手の建設会社でさえ受注をためらうほど深刻らしい。さらに東京都心部では2020年オリンピックを見込んでの再開発の進められている。結果として建設労働人口そのものも東京一極集中が進みそうだ。そうなると東北地方への建設投資はますます困難になり、原発の解体作業も塩風にさらされてどんどん状況が悪化しているにもかかわらず、工事の遅延が懸念される。とまあTVなどからの情報をつなぎあわせてため息をつくしかないのか。経済活動の活性化が東京への一極集中を促し、地方の荒廃を進めるといった構図が一層スピードを上げ限界集落の増加、山から降りてくる猪や鹿、猿に人間との境界線が押し戻されている群馬。これからどんな社会が待っているのだろう。
兵庫県南部地震から東北地方太平洋沖地震
2012年01月17日 | ひとりごと
兵庫県南部地震から17年たった。それ以降、中越、中越沖、そして昨年の東北地方太平洋沖と何やら地底が騒がしい。さらに東海、東南海等と地震の発生が取りざたされている。JIAの活動で震災後の神戸市を訪れた。罹災した住宅の復旧についての助言を行った。東灘区役所から自転車で住宅を回ったのだが、途中市街地から消毒のにおいと音の消えた町の光景の異常さに戸惑った。人がいないということはこういうことなのか・・
あっけなく1階だけが圧壊しているマンション、隣に寄り掛かっているビル。自然の力の大きさを思い知らされる。中越、中越沖では群馬県内にも被害が出るほど身近な地震だった。やはりJIAの支援活動に参加した。柏崎にも向かった。その年の水害に引き続きの災難で二度被災された住人の家に伺う。ボランティアの人たちが立ち入っても安全かどうかを調べる仕事もした。PTSD状態のかたともお話をした。
そして今回。あまりにも悲惨だった。やはりJIAの活動で東松島市に赴く。自衛隊の基地がすぐ目の前の市役所で住宅復興のための相談業務ということだったがまだ現地はそれどころではなく、行方不明者の捜索が続く中、市の職員の方はそとに出掛け全国から集まった自治体職員の方たちが市役所の業務を行い、結局自分たちも市役所の職員と同じような窓口業務となった。応対した市民にうっかりした事は問えない。帰ってくる言葉は想像に絶するものだったにもかかわらず淡々とされていて掛ける言葉を失った。TVや雑誌で状況は伝えられてはいたが、神戸の時以来感じていることはやはり現地に行かなければ、体感しなければ真実は伝わってこないということだ。地震後「想定外」という言葉が飛び交った。
自分たちの仕事の判断基準として建築基準法や建築学会基準といった「基準値」といったものがある。この多くは過去の災害事例を分析して得られた値を採用しているのだが地震でいえば未だに大震災の度にハードルが上がっているのだ。TVの宣伝で住宅メーカーが小賢しくうたっている基準はせいぜいこの程度のものだ。倒壊しかかっても生存空間を何とか確保することが構造設計では大変重要なことだと思うが、安易に「基準値」を超えれば責を果たしたと思っている人たちが多すぎる。本来設計者一人一人が充分研究し、安全を確保することが難しいので国がそこそこの妥協点で決めたのがほとんだ。地震の重力の加速度など個別の建物に予測不可能だ。だから「大体大丈夫だと思う」という基準は越えただけでは責を果たしたとはいえないと思う。その意味で今回の日本の中枢にいる産学官共同の人達の不祥事である原発事故は痛恨の極みだ。我々はことが起きてから初めてことの危うさを初めて知らされた。子供だって理解できることばかりだ。
危険な原子炉の上に学校のプールの何倍にも相当する水槽を設けてあったなど正気の沙汰ではない。繰り返し言われるのは「基準値以下」という言葉だ。目に見えない、経験もない放射能についてまでしたり顔で語られている。
そもそも「基準値」そのものがあてにならないことを思い知らされたのにまだ言うかだ。基準値の正当性など「想定」ではなく「結果」でしか評価されないであろう。
1月17日 兵庫県南部地震を振り返る。
2011年01月17日 | 建 築
兵庫県南部地震は最近起きた大震災として最新の技術により多くの貴重な地震波をはじめデータを得ることが出来た。Eディフェンスではこのとき採集した地震波形を実物振動台に入力し、さらに安全な建築設計の研究がすすめられている。震災後2週間ほどたった後ではあるがJIAの災害復旧支援活動に参加した。まだ東海道本線は住吉までしか開通しておらず途中は損傷を受けた建築がそのままの状態で立ち並んでいた。町の第一印象はまず静かなこと。解体工事の削岩機の音以外は生活雑音が一切聞こえないのだ。さらに消毒薬の臭いが鼻を突く。夏季であったならばとぞっとする。電柱が地面まで垂れ下がり、あちこちで水道が噴出している。現地で五感に受ける印象はTVの前では想像もつかないことだ。
インターネットという言葉が一般化したのもこのころからだ。私はまだMSDOSマシンを使っていてニフティのPC通信にあがってくる現地の情報を傍受していたが避難所に過不足なく物資が届けられないで対応に混乱をきたしている様が痛々しかった。関東では東海地震、または首都直下型地震の危険が指摘されながらやはり実体験が無いので時間がたつに従って警戒心が薄れてきてはいないだろうか。中越、中越沖の新潟県での震災復旧支援活動にも参加した。体験した方のみが知る恐怖感は直接接してみないと伝わらないものだ。最近オール電化住宅というのがもてはやされている。電気は備蓄しにくいエネルギーだ。都市インフラに頼り切った生活がいかにもろいものかを当時神戸の街で目の当たりにした。電力といえどもふっ今日には相当の時間がかかる。
大出力の柏崎原発が地震で大損傷を受け、復旧に相当の時間がかかっている。電力の40%近くを原発が占める現在、電力は不安定なエネルギーであることには変わりがない。火力は輸入に頼り、群馬県内の水力発電所の様に多くの発電所は原発の夜間余剰電力で揚水し昼間発電している。電化という言葉は文明の進歩と同義語であった。しかし地球上の一生物にすぎない人類にとって、過度に依存することは危機管理の観点からは一考を要することにである。
兵庫県南部地震
2009年01月17日 | 建 築
南部地震があった日。建築にも大きな被害が出る。罹災家屋の復旧のための支援のため地震後JIAのメンバーと現地入りした。罹災した家屋の修理の可能性を持ち主へアドバイスする仕事だった。以後中越、中越沖と出場している。京都に前泊し、まだ住吉までしか走らない電車で現地に近づくにしたがって異様な光景が続く。駅を降りてまず大量の仮設WCが並んでいる気が付いた。地震発生後2週間以上経っているのに電気も上下水道もガスも止まったままだ。人が住んでいない町はこんなにも静かなものかというのが印象として残る。消毒薬の臭いが鼻を突く。夏であればとぞっとする。東灘区の魚崎地区の3件ほどの住宅を訪ねた。近くの小学校に避難していた住宅は倒壊を免れたものの、土拭き下地の屋根が壊れ室内は泥だらけ、とても住める状態ではないが避難所も閉鎖されるとのこと。
TVだけではとてもわからない現実。当時はインターネットはまだ普及が始まったばかり、Niftyのパソコン通信で現地の状況は傍受していた。やはりマスメディアでは報じない生々しい情報が飛び交っていた。建築の被害を見ると筋違いの腐食や逆に節点破壊など筋違いの役割の重要性を感じた。やはり局部破壊を起こすような極端な強度の偏在は危険だ。
東灘区の区役所はまだ水道が開通していなかった。前の川までバケツで水を汲みに行き用便を済ましたあとの始末をした。都市インフラが破壊された時に起こる事態の一端を経験する。
現在オール電化が全盛であるがインフラ頼りの脆弱なシステムで危機管理が出来るのかこのとき以来いつも疑問に思っている。灯油やプロパンガスのように身近に備蓄できるエネルギーの重要性を感じる。また高層建物はEVが停まってしまっては避難はともかく生活できなくなってしまう。高層階から用便のたびに地上階まで降りてこなくてはならない。群馬県庁が出来た時高層の庁舎を見上げながら大規模災害の時には使い物にならないなと思った。
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