運転免許証と一級建築士更新の葉書が着く。運転面著はすでに事前に高齢者講習受講済。慣れない教習車でちょっとアクセルを踏み込みすぎ注意を受けたぐらいで終了。老人マークを車に貼るようになったが無視されるような機会が多い。

一級建築士更新講習は考査があるから油断できない。姉歯事件のあおりで目眩まし(のよう)に始まった講習。技術のアップデータは必要なものの、建築士事務所に所属しない多くの建築士は受講不要という不思議な制度。逆では!

15歳で前橋工業高校入学を機会に建築の世界に足を踏み入れた。当時は技術者不足を補うため今では考えられないような詰め込み教育。だったと当時の教科書を見て思う。以来55年、設計の道に進み資格を取得し、様々な建築の設計監理に関わってきた。今度運転免許更新のために出向く群馬総合交通センターも関与してきた。一方独立開業してからは住宅や店舗など民間の施設を中心に25年ほど事務所を主宰し、まだ相談役という立場で関わっている。

第一線を退くと建築の見方も少し替わってくる。現役の頃は少しでも目立とうというバイアスがかかるものだが今は自分が住みたい住宅、自分が利用したい店と思える建築が一番だと思う。住宅は私的な空間であるから住まい手の過去の経験、年令による現実など千差万別であるが結局自分の生き方にあったものしか良しと評価できないのだともう。ただ言えることは建築主自身にも訪れる経年変化という視点を持たないと、ハードとしての建築は長持ちしても使い物にならなくなってしまう。

住宅の多くは商品として住宅産業(ハウスメーカー)から提供されている。一方建築士により設計を行い、施工を監理するという方法もある。こちらにずっと身をおいてきた。少なくとも消費者より総合的な建築に関する知見を溜め込んできたわけだからこれを正しく発揮する義務があると思う。今日的課題はやはり地球環境配慮であろう。これは結構窮屈なもので建築表現の選択肢を狭める可能性もある。ラワン材のように熱帯雨林破壊につながるような材料の扱いなど戦後復興期に大量に使われてきた材料も使用を惹かなくてはならない。国内の森林の材料も紙原料や発電燃料に使えばあっという間に枯渇してしまう。大きな開口部は熱が逃げるだけだから高性能ガラス仕様だけでは追いつかない。等など設計の自由性を奪うこともある。真に循環性を考えることが生きていくこととリンクして住宅の設計に反映していくことが些末なデザイン以上に求められる。