JIAは1886年に設立された造家学会をルーツに持ち、幾多の変遷を経て現在の日本建築家協会となっている。その第一世代の建築家には辰野金吾をはじめそうそうたるメンバーがなお連ね、その後の流れは村松貞次郎の著書「日本建築家山脈」に詳しい。現在所属している住宅部会も旧建築家協会時代の1975年に成立し、45年の歴史を刻んできた。前川國男らの発議で建設された建築家会館は外苑西通りに面して青山通りの交差点と明治神宮外苑の中間点に位置し、最寄り駅は銀座線外苑前駅か中央緩行線千駄ヶ谷駅である。

私がこの会の会員になったのは1987年、旧建築家協会と設計監理協会が合併した直後のことであった。当時の勤務先の所長の推薦でわけも解らずからず入ってしまったというのが真相である。
1991年の自らが主宰する事務所を設立してから本格的に関わりを持つようになった。1993年の建築セミナーに1年間通い今考えても素晴らしい先輩方から貴重なお話を拝聴することができた。

今となっては近代建築ながらその時代を反映した重厚な建築家会館の建物に出入りすることは錚々たる建築家と空間を共有するという誇りと緊張感をもたらすものであった。前川國男らがグラスを傾けたバーも健在で会員の文書ロッカーの設えも残っていた。現在は建築家クラブという部屋が活動の中心となっているが折々の行事で知り合った会員の方々との交流がその後の建築人生を豊かにしてくれたことは言うまでもない。

ところが今年の新型コロナウイルス禍である。2月以来一度も上京することができない状況が続いている。更に12月現在ますます状況は悪化しつつあり、住宅部会の活動も大幅に制限されたままである。
今はオンラインでの部会活動に集約し、毎月の部会の日はかろうじて開いているがオンラインの長所としてとりあえず参加はしやすくなって昨年より参加人数そのものは大幅に増えている。
しかし対面で何気ない会話から得られた情報もオンラインでは叶わぬことも多い。自然、部会員同士の距離感が広がりつつあり寂しさもつきまとう。

この会で新鮮だったのは忘年会や納会が建築家クラブでときには手作りのつまみやケータリングで後片付けまで会員の手で行うなど飲食店舗で開かれるものとばかり思っていた身には大変新鮮だった。
中澤会員のサーブによる生ハムや差し入れのお酒も、時には会員の郷里から新鮮な魚(和歌山県)などが届いたり非常に和気あいあいとしたなごやかな会だった。

あの建築家会館という場に集まれることそのことが自分にとってのJIAだったと思う。それができないはがゆさをしばらく味わうことになるのだろうか。