群馬県立歴史博物館に「上毛カルタの世界」展を見に行く。昭和43年当時、絵札の原画を描かれた小見辰男先生の画室に通っていて部屋いっぱいに色紙に描かれた水彩の原画が並んでいたのを思い出す。日展系の創元会の先生の画風はクラシックな油彩画であったが日本文化への思い入れもありモチーフには武具や舞台衣装など日本的なものが多かったと記憶している。実家が表具師であったことも美術学校へ進学する背景と伺っている。夏は甚平姿であぐらをかきキャンバスに向かっておられた。

油彩の基礎をご指導いただいたがもう50年も前のことで、今もう筆を持つ機会もない。理系主体の建築設計の仕事を理数系が苦手な自分が生きてこられたのは実は絵画での経験からまだ手描きであった時代の透視図のスキルを勤務先で認められ首にならずに使っていただいた結果であったと思っている。

ヨーロッパ旅行のスライドを勉強会の後の時間に映していただいて自分もいつか欧州を旅行してみたいと思った。後年カメラを首に下げ欧州旅行をすることができたがこれも先生から影響の一つだ。
飛騨高山のことも先生から教わった。飛騨高山への旅行の帰りに「山車」という高山の地酒を携え訪問したことがあった。視力が低下したことを嘆いておられた。画家は目が命だからだ。

亡くなった後も上毛かるたは若い世代に引き継がれていく。東京であった人でも上州人と聞くと真偽を確認するのに上毛かるたの札読みで謎をかけるほど。
今日改めて上毛かるたの成立について展示でその奥行を知った。占領軍の監視下であっても上州人の誇りを捨てなかった先達に頭の下がる思いだ。
「雷と空風 義理人情」国定忠治・・任侠道(反社会勢力)
「歴史に名高い新田義貞」新田義貞・・戦前の軍国主義
これらを執念深く是非はともかく群馬の歴史から切り離せないものとして作り上げたのだ。

勤務先の先輩の話では前橋工業学校で終戦時に戦争礼賛したことを生徒に謝罪したのは小見辰男先生のみであったとのこと。油彩画家としての一面に歴史と向かい合ってこられた姿勢が重なる。油絵の具とキャンバスの匂いが思い出される。