たまたま元の前工の校舎の前に建つ。校舎移転に北側の一棟だけが富士機械に売却され残った。門も残っている。その他は商業施設が立ち並び面影はない。高校を出てすぐに社会にではからここが最後の学校である。スバルのテーマカラーに塗られているがその他はほぼ当時のままだ。西側から電気科、機械科、建築科、工業化学科、土木科が入っていたと記憶する。

この棟は実習棟なので工場のような造りで一般校舎と違って梁間方向2スパンで中廊下もあるがもっぱら移動はバルコニーだった。階段もアパートのような外部階段。
当時8科10クラス。時代を移り変わりを反映して色染、繊維、建築、金属、工業化学、機械、電気、土木の順に設置されたとか。

3学年、30クラス、定員1500名。すべて男子、中学から上がるとなんとも圧迫感のある空間。昭和42年当時普通科の教員がインテリらしく振る舞っていたのに対し、専門科目の軍隊帰りの教員は教育はげんこつと心得ているといった具合。それでも修学旅行で不始末をしでかした受け持ちの生徒のために頭を刈ってかばってくれた担任の姿は未だに忘れられない。

建築科では1年生のときから製図の授業があり、校舎中央2階が製図室だった。絵を書くことが好きだったのでこれを活かせればと選んだ建築だったが基本理系の仕事である。3年間頭の痛い生活をおくることに。A1版のケント紙に課題を描いていくのだが最初は烏口で墨入れから。もはや死語であろう。さらに不器用である。定規の裏に表面張力で墨が広がりあっという間に真っ黒になることも。設計志望にもかかわらずかなり点数は悪かったと思う。2年、3年になっても大して上達せず、それでも頑張ってなんとか描けるようになって就職試験も学校の口添えでなんとか通り就職できた。
48名いた同級生は6名が進学し、残りはそれぞれ就職した。清水建設、大林組、戸田建設、錢高組、佐藤工業、松井建設、など大手建設会社にも就職できた良い時代だった。

鉛筆からマウスに変わっても頭で考えたことを紙に移し替えることは変わらない。51年にわたって図面を書いてきた。BIMなど設計製図のありかたもこれからどんどん変化し、分AIに能力を吸い取られそうな未来だ。ただ自分にとっては鉛筆でアイデアを何度もなぞりながら定規で清書したことが原点だ。自ら考えることは放棄したくない。