今、1964年の東京オリンピックのときのような高揚感がまったくない。
1940年の大会のように政治利用でもなく、敗戦の廃墟から立ち直りつつある明るい空気のなかのさわやかな行事であった。
時代が変わりアマチュアスポーツも単なる興行のひとつになってしまった。
FIFAの不祥事が象徴的である。

新国立競技場で日本の建築界、とりわけ建築家は世界中に恥をさらしつつある。
コンペ審査員は全ての責を負うべきであろう。
コンペ参加者は募集要項を読み込んで最適解を提案し、審査員は募集要項に沿ってその優劣を判断する。
コンペの結果は募集要項そのものの優劣なのだ。
現地の状況把握が出来ないまま作られた募集要項を作った責任はあまりにも大きい。

コンペ参加者に落ち度があったとしたらそれを採用した審査員の責任だ。
設計者は袋叩きに会っている状況で大いに当惑しているだろう。「私は悪くない」と。当然だ。

審査員にも建築家がいる。「住吉の長屋」のころの輝きがなく、体制に組み込まれ消費されてしまった。
取り巻きも見当違いの弁護をして見苦しい。

槇文彦氏らが奔走してもすでに舞台裏がすっかり露出してしまった。
ザハと組んで実施設計を進めた日本側の設計者はどんな心持だろう。

仕事になれば何でもやる。コストコントロール不能。建築家への不信感のみ残る後味の悪さだ。