タムロン28-300は鉄道写真では遠景から近景までシームレスに撮ることができる。山の草花も道からそれることに制限があり(森のくまさん)やはり立ち位置の制限が多い現場ではすごく自分の撮影スタイルに向いていると思い使い続けてきた。

一方f4.0からf6.3という開放値の高さが足かせになることも徐々に感じてきた。また建築写真や街並み撮影には画角28ももうちょっとの印象。
広角側の補強と明るいレンズが欲しいというレンズ沼回帰の気持ちが強くなり、評判の良いSONY20-70f4.0も候補になったのだがどうせならとf2.8のシグマに落ち着く。
国際協業化ということで設計は国内でも製造は海外ということが多い。品質管理さえしっかりしていればどの国でも同じようなものだがシグマのメイドインアイズというのには大いに惹かれるものがある。ヤマハもかつてはメイドインハママツだった。あの雪深い福島県産、応援したい気持ちも湧いてくる。
タムロンのメンテは弘前だった。コシナの頑固な作りも捨てがたい。Eマウント,AFの親和性が難点。とにかく日本の製造業、ぜひ頑張ってほしい。
ChatGPTに本文の読者向編集を依頼した。
自分のためのメモとは違った丁寧な説明と逆に不要な部分の省略など、大変参考になった。
そのうえで各レンズの役割も再認識した。
以下ChatGPTの回答
【レビュー】タムロン28-300mmから見えた“F2.8の誘惑” ─ SIGMA 24-70導入記
はじめに
2024年8月、それまで使っていたタムロン28-200mmから、タムロン28-300mmへと切り替えました。鉄道や山岳風景、街のスナップまで幅広く撮影する私にとって、この高倍率ズームの使い勝手は非常に魅力的です。
しかし最近になって、ある“欲”が静かに頭をもたげてきました。
それは「F2.8の世界」を体験したいという衝動でした。
今回は、そんな「便利ズームと大口径ズーム」の間で揺れる葛藤と、SIGMA 24-70mm F2.8を選んだ理由を綴ります。
タムロン28-300mmの実力と限界
立ち位置が制限される撮影にこそ真価を発揮
鉄道撮影や山の草花の撮影では、場所移動に制限があることが多いです。例えば登山道や踏切付近では、限られたポジションから被写体を狙うしかありません。そんなときに、ワイド端からテレ端まで1本で対応できる28-300mmの高倍率ズームは心強い味方でした。
しかし、光と広角が足りないと感じる瞬間も
一方で、開放F値がf4.0〜f6.3という点が、少しずつ足かせに感じられるようになりました。建築の室内撮影や、日が傾いた時間帯の撮影では、どうしても感度を上げざるを得ず、画質的な妥協を強いられる場面が増えてきます。
また、28mmスタートでは、街並みや室内など「もう一声広く撮りたい」と感じるケースも。そんな思いが、じわじわと広角・明るさへの渇望を生んでいきました。
広角・明るさ・画質…欲張りレンズ探しの旅
SONY 20-70mm F4と迷ったが…
最初に候補に挙がったのはSONYの20-70mm F4。広角20mmは魅力的で、AFの正確性や純正ならではの色味も安心材料でした。
しかし、タムロン28-300からのステップアップなら、もう一段階、開放F値に差があるレンズを体験してみたい。そう考えるようになったのです。
たどり着いたのはSIGMA 24-70mm F2.8
そして選んだのが、SIGMAのArtシリーズ、24-70mm F2.8 DG DN。評判通りの高解像と美しいボケ味、そしてF2.8の“撮れる領域”の広さ。実際に使い始めると、暗所や逆光、浅い被写界深度を生かした表現の自由度に、明らかな違いを感じました。
“メイド・イン・会津”に惹かれて
SIGMAは設計から製造までを会津工場で一貫して行っています。国際協業化が進む中で、この「メイド・イン・ジャパン」の誇りを感じさせる姿勢には心が動かされました。
ふと思い出したのは、かつての「メイド・イン・浜松」時代のYAMAHA。地方に根ざしながら世界水準の製品を生み出す姿勢には、応援したくなる気持ちが湧いてきます。
おわりに:レンズ選びに正解はないが、「納得」はある
高倍率ズームと大口径ズーム、それぞれに利点と弱点があるのは確かです。撮る対象・時間・場所によって「最適なレンズ」は異なります。だからこそ、使って、感じて、迷って、また選ぶ。
その繰り返しの中にこそ、自分の撮影スタイルが浮かび上がってくるのだと思います。
▼今後の予定記事(シリーズ化も可)
- SIGMA 24-70mm F2.8 作例レビュー(鉄道・街・建築編)
- 「山の草花」にはどこまで寄れる?AFマクロ性能検証
- 28-300mmは本当に手放すべきか?再評価レビュー
小林彰太郎的なリライト
f2.8の誘惑――光をめぐる寸法
写真という趣味は、光を扱う仕事である。
もちろん芸術でも記録でもあるが、突き詰めれば、レンズというガラス越しに、この世界の光と影を読み解く行為に他ならない。
長く使ってきた一本のズーム、タムロン28-300mm。それは便利な道具だった。構図の自由度、携行性、そして何より鉄道という被写体に対する適応力において、実によくできたレンズである。線路端に立ち、遠ざかる編成を見送り、次の列車を待つあいだの時間も、この一本があれば心強かった。
山の撮影では、立ち入りに制限がある。野草一輪を撮ろうとしても、踏み跡を外れるわけにはいかない。”くまさん”との遭遇を避けるのも、近ごろでは重要な配慮である。そうなると、焦点距離の可変域は「構図の自由」としての機能だけではなく、被写体との適切な距離を保つための寸法ともなる。
だが、すべてにおいて「便利」は、必ずしも「最善」とは限らない。
開放f値4.0から6.3――明るいとは言えない数値である。夕暮れのプラットホーム、曇り日の街角、室内の微妙な陰影。もう少し光を引き込めれば、と思うことが、少しずつ増えてきた。
人は、光に対して鈍感になってはいけない。光は写すものであると同時に、感じるものでもあるからだ。
ふたたび広角レンズへの憧れが湧いてきたとき、選択肢として挙がったのはSONYの20-70mm f4。評判も良く、設計も新しい。だが、この”f4″という数字に、心が止まった。「あと一段、明るくはならないか」と。
そして手にしたのが、シグマの24-70mm f2.8――Artライン。
レンズに“Art”などという名を冠するのはどうかと思わなくもないが、これはただの商標ではない。少なくともこのレンズには、「光をどう描くか」を真摯に考えた開発者の、気骨が宿っている。
製造は会津――”Made in Aizu”の刻印がある。雪国の工場で黙々と作られる光学製品。かつての「Made in Japan」を思わせるそのたたずまいには、無言の説得力がある。私は製造国を気にする性分ではないが、「どこで、誰が、何のために作ったか」は、道具選びにおいて一つの美学だと信じている。
タムロンは弘前で修理を請け負ってくれた。コシナのレンズには、削り出しの金属パーツが今なお息づいている。日本の地方工場がそれぞれの役割を担いながら、静かに、しかし確かに「ものづくり」の背骨を支えているのを見ると、応援したくなる気持ちが自然と湧いてくる。
f2.8という数字は、単なる明るさではない。
それは、シャッター音の背後にある光の揺らぎを、より細やかに掬い取る寸法だ。
道具に惚れる――それもまた趣味の愉しみである。
どんなに便利でも、どんなにスマートでも、「ああ、この一本とならば」と思える相棒がいること。その喜びを知った者だけが、次の一枚に心を込めることができるのだと思う。
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